恥の感覚

恥、恥ずかしい、という感覚がよく出てくるかもしれない、という場合。

この恥、恥ずかしい、というのなんなのか、というのを、もうちょっと具体的に言葉にしてみると、社会的な価値観、多くの人の価値観から外れるような失敗や欠点が恥で、失敗から学んでもっと高いレベルを目指したい、目指そう、もっとよくできるはずだ、という反省があるときに恥ずかしい、と感じます。

なので、ポジティブな側面もある、と言えるのですが、問題は「度を越した恥ずかしがり屋さん」「自分がんじがらめになって、苦しくなっちゃうような、恥の感覚がある」というような場合です。

 

 

まず「価値観」というのは人それぞれです。

社会的価値観、モラル、というものは、大切ですが、あまりにもそういったものを重要視しすぎて、強く我慢してまでそれを守ろうとすると、外側基準、外側の評価ばかりが気になる、気になりすぎる、となって、自分がつらくなってしまうことがあります。

いつもいつも、外側の評価、人の目を気にしては、「もっとよくできたはず」ということを繰り返していると、なにもできなくなってしまいます。

「社会的な価値観、モラル、みんなのことを、大事にしなければならない!大事にすべきだ!」と、強く厳しくジャッジしてくるような存在、「それができない自分はダメだ!」と強く禁止してくるような存在を、ここではエゴと呼んでいます。

この存在が隠れていると、恥、恥ずかしい、という感覚がよく出てきます。

「恥・恥ずかしい」というのは、機能不全家庭で育った人のトレードマーク、と聞いたことがあります。なので、恥の感覚が強い方は、生まれのご家族との関係性を見つめ直してみて、必要そうだと感じる場合は共依存や境界線などについて調べてみると、大きな収穫があるかもです。

 

 

この場合の「心のSOSサイン(自分の心が自分と向き合って!自分を愛して!と言ってるサイン)」としては、

  • 心からの感謝ができない
  • モラハラ問題が生じる(モラハラな人が登場する、モラハラだと言われる、モラハラ×モラハラ状態など)
  • 自信がなくて行動に移せない

などがあります。

これらは、激しいジャッジの存在(エゴ)と同一化していることが原因だったりします。

なので真面目で誠実で謙虚な方で、でも内面では「正しいか、正しくないか」でご自分をいつも裁いている、という場合に多いのです。

いつも「それはダメだ!こうすべきだ!」とジャッジしてくる存在がエゴで、これをゆるす、ということを、していきながら、丁寧に丁寧に、少しずつでもマイペースに、自分をあたためていきます。

どんな自分も、どんなに禁止していることも、OKする、それでも大丈夫よ、と包んでいく感じです。

 

 

「どんな自分もOK」「どんな自分も愛する」「そのままでいい(動かさない、よくなることを要求しない)」ということを、ブログで繰り返し書いていますが、

セッションでは最初の方で「どうやって自分を愛していいのかわからない」「そのままでいいと思えない、思いたくない」とおっしゃる方も多いです。

 

 

これはどういうことかというと、自分を愛する、ということをずっとしてこなかった、教わったことがなかった、知らなかった、ということでもあるかもしれません。

そんな自分に対して、責めたり、問題視したり、深刻視したり、さらにジャッジしてマルバツをつけたり「お尻を叩いて頑張れという」というようなことを、これ以上、できるでしょうか。

 

 

小さなこどもに対して「この世界の正しさ」「人様からどのような目で見られるかについて」が書かれた分厚い教科書を押し付けて、この通りに生きなければならない、そうでなければ恥ずかしい存在なんだ、と何度も言い聞かせきました。

こどもに悲しみや、さみしさや、心細さや、怒りが出てきたときは、その対処法については「この世界の正しさが書かれた分厚い教科書」には載っていませんから、おとなだって、どうしたらいいか、わからない。

だから、そのおとなは、突然、感情が溢れ出てきた子供に対して、咄嗟の反応として、自分が自分に教えてきたように教えるしかなかった。

「無知だった」「知らなかった」「だからどうしていいかわからず、自分が自分に教えてきたように教えた」というおとなを、もうすでに過ぎ去ったその出来事を、おとなになったこどもは、人生をかけて責め続けることもできます。

あのおとなのせいで、人生がこんなことになった、と言い続けることもできます。

そんな時期はあるでしょう。

そして、同じように、「無知で、知らなくて、自分が自分に教えてきたように教えるしかなかった」そのおとなを解放することで、自分が解放され、自由に絵を描いて、その絵の中で楽しみを重ねていくこともできます。

どちらを選ぶこともできて、どちらを選んでも、無限に愛してくれて、選んだほうを無限に応援してくれる存在のことを、わたしは神様と呼んでいますが、

神様は「世話焼き人間」とは異なりますので、「良かれと思って、あなたのためを思って、しゃしゃり出てくる」みたいなことは、絶対に、しませんが、ずっと「最高の幸せ」だけを用意していつもわたしたちを待っているという感じです。

 

 

プライベートでもセッションでも「恥ずかしい」が漏れ出てくる人、というのは、不思議なほど、そのままで素晴らしい方ばかりです。

「漏れ出てくる人」なので、なんというか、建前的な感じの「まぁ、お恥ずかしい」みたいなトーンではありませんよ(笑)

ピュアに「恥ずかしい」という言葉が、漏れ出ている人です。雑音が混じってない感じです。

もう、十分に、まっすぐに、これ以上ないほどに頑張ってきていて、「あるとき手渡された教科書」をまっすぐに守り続けてきて、「まだ、よくできたはずなのに」と、か細く漏れ出る、優しい声です。

その方の「エネルギーそのもの、それ自体」は、とても強くて清らかでまっすぐなのです。

なんというか、妙な偽善、隠された工作、のようなものがない感じというか、ピュアな正直な方が多いです。

正直さというのは、創造性を発揮する、魅力を発揮する、才能を発揮する上で、欠かせない要素です。

 

 

そしてそういう方がうまくいっていないというのは、その方の強くてまっすぐなエネルギーを、自分を苦しめる「幻の存在」に、注いでしまっている状態です。

強くてまっすぐなエネルギーを、幻の存在(エゴ)に、明け渡している。(なので、「明け渡すこと」自体もできている)

だから、結構すごいのですが、いくら、他人から認められても、自分が自分のことを認められていなかったら、他者からのどんな称賛も、評価も、さらなる比較や自己否定の道具にすることは、できるのです。

どんなに承認欲求があったとしても、今、「わたし」が欲しているのは、「わたし」からの承認だけです。

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