奇跡って。
「自分で設定したゴール・目標が達成されること」
「自分が思い描いた通りになること」
ではないです。
このことを受け入れることは、非常に重要ですし、「時短」になりますし、「混乱」「迷子」にならなくて済むと思います。
とはいえ、実際、セッションなどでも「当初、本人が、こうなったらいいな、と思っていたその通りに、まるでピンポイントであるかのようにして、叶えられていく」ということは、珍しくありません。
けれども、これを書いてしまうと「じゃあ、わたしも、そうなりたい!」と、思わずにはいられなくなるもの・・・でしょうか?本当にそうでしょうか?
奇跡は、目標達成の話ではありません。
願望成就とは思いの具現化のことですが、願望成就も、思いの具現化も、目標達成の話ではありません。
「願いが叶うことだけが、ほんとうにわたしが望んでいることなのか?」
願いが叶うことも求めているけれども、同時に、それ以上に、重要なこと、ということがあるはずです。
例えば、「素敵なパートナーと出会う」という願いが叶ったとして、素敵なパートナーと出会って、しばらくは心地のいい、幸せな関係性が続いたのはいいけれども、次第に分かり合えないと感じるようになる、さみしさを感じるようになる・・・といったことは、望んでいないはずです。
このことは「自分自身に対して、正直である。素直である」のであれば、その通りだと思えるはずです。
願いは願えば確かに叶いますが、その裏にある「願いが今叶っていない」という不足感、欠乏感、不安、焦り、思い通りにしたい・思い通りにならないという苛立ち、今のままじゃダメだという自己否定感も同時に膨らんでいくのです。そして、受取拒否をしたり、逆の方向を選んでしまう、ということはよくあることなのです。
「逆の方向を選ぶ」というのは「愛そのものであるわたしにとって相応しい方向」ではなく「ダメな自分にとって相応しい方向」という、心の中の選択です。心の中の選択は、そのままこの世界に映し出されています。
願う、というのは、その思いを持ち続けるということなので、「願い」と「その裏にある不足感、欠乏感・・・」という表と裏の両方が膨らませることにもなるのです。
だから、まず、大事なのは、内観・浄化、です。
ここでいう、内観と浄化、というのは、自分の心の中で思っている思いの数々を見つめていく中で、
判断(ジャッジメント)、決めつけ、思い込み、評価、比較、
支配したい、操作したい、拒絶したい・・・という思い(コントロール)
などを見つけて、手放していく(手放したいと思っていく)ということです。
その、手放して空っぽになったところには、もともとあった愛が溢れて、映し出される=奇跡、です。
たったこれだけです。
これは「願いがなんだかわからない」「何がしたいのかよくわからない」というような場合でも、同じです。
自分に対して、優しい人、自分が好きな人に対して、感謝するのは簡単なことです。
自分にとって、心地がいいと判断できる状況を受け入れることも、簡単なことです。
「難しい、できない」と思えることこそ、「今までの自分の見方、やり方、ではない見方」で見るからこそ、
奇跡というひっくり返しを体験できるのです。
逆にいうと「今までの自分の見方、やり方」がうまくいっていない、ということを、受け入れる、認めていく、ということでもあります。(うまくいっているなら、問題・悩みになったり、どうしても叶えたい願いと執着したり、不安になったり、心配したり、しないはず)
そして「今までの自分の見方、やり方、ではない見方がある。今までの見方、やり方ではうまくいかない」ということに対して、エゴは「そんな自分はダメだ、劣っている」というかもしれませんが、
これは、朗報で、奇跡を経験できるということで「次元上昇できる」ということでもあります。
次元上昇、というのは、「本来の愛そのものであるわたし(人間ではなく、スピリット)」に戻っていくということです。