「変わらない」
「奇跡を受け取れない」
と、言いたいとき。
「奇跡を受け取れない」の類義語というか同義語としては「自分でやろうとしている(エゴと同一化している、エゴに従ってる)」ということなのですが、
最近よく思い浮かぶのは、「神に背を向けたままだから」ということがあります。
ここでいう「神」というのは、もちろん「神々の神、この世界(外側)にいる神、神話の神」の話ではなくて、大いなる存在のことです。
「自分の中にある、自分を超えた、自分よりも大きな何か(内なる神聖性)」という感じです。
よくわからないという方は「そういう、ものすごいものが、自分の中にあるらしいぞ」と、ただ認める、受け入れるだけでOKです。
そして、「本来の自分自身」とは「この身体を持った、個人としてのわたし」ではなくて、「自分の中にある、自分を超えた、自分よりも大きな何かとひとつのもの(神の子、スピット)」である、ということです。
奇跡というのは「神様からのプレゼント(贈り物)」のようなものです。
奇跡が起きること・奇跡を体験すること・受け取ることは贈り物で、贈り主は神様です。
神様は、わたしたちが心で思っていたもの、ほしいと願っていたもの、好きなものを、ずっと、よーく見ていて、知っていて、どうしたらもっと喜んでもらえるかをいつも考えてくださっているような感じなのです。
なので、「奇跡というのは自分の計画ではない」と強調しているのですが、実際、あるとき「そういえば、自分がほしいと思っていたものが、気づいたらすべて叶っていた」とおっしゃる方も多いのです。「ある日ふと」「そういえば」という形で気づくものです。
そして、神様は、神様なので、与えることしか、考えていません。
それなのに、「奇跡を受け取れない」「なかなか変わらない」という場合は、この神に背を向けている状態。
「自分の中にある大きなもの、完璧な愛、愛する力、愛される力、認める力、尊さ、輝き」などに、背を向け続けたまま、ということなのです。自分のことをこのように見ているので、相手のこともそのように見えてしまう、というのが、投影(鏡の法則)です。
背を向けたまま、というのは、「今ないものを手に入れるために、今欠けたものを補うために、今足りないものを満たすために、今問題であるものを解決するために、頑張る」などです。
このようなエゴの思考パターンに絡め取られていたことに、気付けるだけでも、大きな一歩なのです。
「神に背を向けたまま、奇跡を受け取りたい」という場合、「奇跡=自分が指定する通り、自分が計画する通りに願いが叶うこと」となっていることもあります。
「神様から贈り物を受け取るんじゃなくて、自分で買いに行きます」みたいな感じです。これだと当然「奇跡を受け取れない」となります。
「自分で買いに行きます」という状態というのは、どう頑張っても、コントロールしたい思い、外側の状況や誰かを変えたい思い、拒絶したい思い(=受け入れたくない思い)、自分の考えを正当化したい思い、といったものをともないます。これは、もう、そういうもの、という感じです。
このようなエゴの思考の働きを、
ただ、
見つめていく、内観していく、このことがまずは、とても大事なのです。
自分でやろうとするのは、神様の愛、奇跡の采配を恐れているからなのです。
けれども、この内観も、一人でやろうとすると「キツイ」「自分を裁いてしまう、責めてしまう、禁止してしまう」となることはよくあることです。
恐れが強いときというのは、何もかも、恐れを膨らませるための材料に見えてしまうものです。
神様に「一緒に見てください」と、お願いして、内観する習慣をつけるだけでも全然違います。神様は、完全ノージャッジ、無条件の愛の存在です。
とりあえず、まずは、このようにして、裁くことなく、見ること。
裁くことなく、隠すことなく、カバンの中身(闇)を、ぜんぶ、素直に正直に、神様(光)の前に出すこと。
どうしても「大事なものを隠す」のが、エゴの手口ですが、続けていくうちに、だんだんとすぐ見つけられるようになってきます。
このことがすごく大事で、そうして初めて「闇を光に戻してもらう」「浄化する」ということが可能になります。
ここまで、ほんとうに、どれも抜かすことなく、隠すことなく、丁寧に、やっていったなら、奇跡は受け取れます。
「そういうもの」だからです。
ここまで、丁寧にやった上で、やり続けている上で、「奇跡が受け取れない」ということがある場合は、
現在もしくは過去に関わった人の中に「天使(文字通り、天国からの使者)」がいるはずです。
ここでいう「天使」というのは、絶対に許せない人、絶対に嫌いな人、ダメだと見下してる人、関係が悪い人・・・などです(笑)
逆に、というか。
奇跡をどんどん受け取る方、というのは、神に思いを馳せること、神に心を向けることが大好きだったり、自然とできていたり、ということもできます。
ここでいう「神」とは、もう一度言いますが「神々の神」だったり「外側にいる神様」ではなく、自分の中にある内なる神のことなので、
例えばですが、宗教に入っているか否か?や、家に神棚があるか否か?や、神話に詳しいかどうか?などに関連するものではありません。
心の中の話です。「その心は?」の話です。
心がエゴと共にいるのか?神と共にいるのか?
心がエゴ(裁き、罪、罰)の方を向いているのか?神(無条件の愛)の方を向いているのか?
心がエゴと共にいてエゴの思いに染まっているのか?神と共にいて無条件の愛に染まっているのか?
ただそれだけの話です。
そして、どちらを向くか?どちらと共にいるか?は、自分が今、選ぶことができます。
この「わたしは、エゴではなく、内なる神を選びたい。無条件の愛を受け入れたい」というのが、9(他力本願):1(自力本願)の、1の方です。
誰かや何かのせい、育った家庭環境などに左右されるものでは一切ありません。