「ある」→「ない」→「そして、ある」

0段階目。(ないふり)

負の感情(罪悪感やおそれ)、不要な信念、カルマなどが「ないふり」をしている段階。

ないふり、あるいは、気づいていないふり。

「本当にない感じがする」ということもあると思いますが、この場合は、「なんか気になる」「モヤモヤする」などの感覚があったり、サインを受け取ったりすると思います。

 

 

1段階目。(「ある」)

0段階目において、ないふりをしていたものが「ある」こと、「自分は確かに握りしめていたこと」に気づきます。

この0段階目から1段階目のプロセスというのは、苦痛を伴う、というよりも、今まで抑圧してきた苦痛に直面することになるのですが、非常に重要です。

なぜかというと、この段階を無視して、「ない」と言い張ろうとすることを、エゴは推奨してくるものなのですが、

この段階を無視して「罪悪感は感じなければいい」「わたしは完璧だ」と言っていても、それこそ、抑圧であり、否認であり、

潜在意識の奥にある「決断する力」に届いていないからであり、潜在意識と顕在意識の不一致、ということになるからです。

それゆえに「意志」「意図」というものが、うまく作動しなくなる(=うまくいったり、いかなかったりする)、ということが起きてきます。

この0から1段階目のプロセスを、エゴは、どうしても、回避させたがります。

なんなら、この1段階目は、エゴによって、悪いこと、危険なこと、無駄なこと、可哀想なこと、という認識をしてしまいます。

そして、この部分を見ていない場合、「(嫌な現実、最悪な現実として)現象化する」みたいな感じになります。

 

 

2段階目。(ない)

1段階目において「握りしめているもの」を確認しました。

(a)ここで、その握りしめているもの、自分にとって苦痛を呼び起こすそれ、というものは、実はない、ということ。

(b)その「自分にとって苦痛を呼び起こすそれ」がない、ということは、想像を絶する素晴らしいものが、自分にはある、ということ。

この(a)と(b)というのは「証拠」を先に出せ、と言いたくなるところですが、証拠を先に出してもらう、ということは、ありません。

なぜなら、自分が「ないものをあると握りしめているが故に、そのあるものが見えなくなっているから」です。

ということで、(a)と(b)を自分が受け入れることと、「不快な信念を握り締め続けること」を天秤にかけることになります。天秤にかける、ということは、自分は、心の奥で、どちらを望んでいるのか?ということです。

ここで「それがない、ということが、わかりたい」「自分が間違っていた、自分が勘違いしていた、ということをわかりたい」「そして、自分の想像を絶するような完璧な幸せ、心の奥から溢れ出る完璧な喜びというものを受け取りたい」と、

心の底から、切実に思うとするとするならば、3段階目を受け取ることになります。

 

 

3段階目。(”ある”)

本当の意味で「ある」という体験です。

この「ある」というのは、もう、言葉で一言でまとめることが、できるような類のものではないと思います。

完璧な幸せ、完璧な喜び。

 

 

そして、この、0〜2段階目と、3段階目を、

行ったり来たりするような、そういう経験をします。

そのことによって、深まり、広がり、確かなものとなる、という感じです。

 

 

クライアントさんが「今更こんなこと聞くの、恥ずかしいのですが」と、おっしゃることがよくあるのですが、

それは、より、自分自身の体験、理解が、深まっている、広がっている、ということでもあって、本当は、全然、恥ずかしいことでもなんでもないのです。

 

 

わたし自身、「今ようやく、このことの意味がわかった(今までわかってるつもりで、全然わかってなかった)」みたいなことは、よくあります。

例えばですが。

10代の頃の「継続は力なり」ということについての自分の理解と、

現在の「継続は力なり」についての自分の理解は、

全く、異なります。

「継続は力なり」という言葉に感じていた、質感、雰囲気、色合い、香り、音色・・・もう、そういったすべてが、全く違うのです。

10代の頃は「怖い、ゴツゴツで、怒ったような顔をした、スパルタな柔道の先生」みたいな、そんな人が、イメージで浮かんでくる感じだったのですが(笑)

今は「フワッフワの雲の上の天国で天使たちがラッパ吹いて祝福してくれてる感じ、全ての存在が喜んでいる感じ」なのです(継続は力なり、の話です)

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