「騙された」について(と深い癒し)

今朝の「ringoに似た、謎のメール事件」で、「騙される」というワードが浮かんだ。

※というか、そんなことより、「変なメールが届いた(こわい)」となった方、いらっしゃいましたら、そう思って当然です、本当に申し訳ございませんでした。そして、メールいただいた方で、お返事が追いついていない方、お返事、もう少々お待ちくださいませ。。

 

 

話を戻して、なぜ「騙される」ワードが浮かんだかというと・・

「ringoっぽいけど、ringoっぽくないメール」だったと思うからです。

「なんか、偽物っぽくて、悪い感じのメールみたい」みたいな感じに感じた方もいらっしゃったと思うのですが(当然です、ゴメンナサイ・・)

その関連で「騙される」というワードが浮かんだのかもしれません。

 

 

「騙される、騙された」といえば・・

わたしは、昔、当時のパートナーに対して「騙された」と不平不満というか、文句を抱いたことがあります。(騙された、以外にも、色々被害者意識が爆発していました・・)

当然、これは、自作自演の投影物語だったのですが、恥を忍んで書いております・・。

「一体、何をどう騙されたと思っていたのか?」については、もう覚えていませんが、当時住んでいた家の自分の部屋の中で、「騙された」と泣いていた自分を、ふと思い出しました。

多分、約束を守ってくれなかったとか、思ってたのと違うとか、そういうことだったと思います。今思えば、思い出すこともできないほどのこと、たいしたことではないのです(なので、恥を忍んで書いております・・)

なんというか「エゴが作り上げた脳内ドラマ、投影物語」というのは、愛に戻ると、忘れてしまうものです。

 

 

「騙された」って、なんだろうってことで、ブログを書いてみます。

「騙された」って、例えばですが、「愛を与えてくれると思っていたのに、愛ではないものが与えられた」というとき、「騙された」と思うかもしれません。

 

 

「愛を与えてくれると信じていたのに、あるいは、相手とそう約束をしたのに、愛ではないものが与えられた、あるいは、愛を与えられなかった」みたいな。

言い換えると「安心安全だと信じ込んでいたのに、安心安全ではなかった」とか、そういうのも、含まれるかもしれません。

 

 

「愛を与えてくれると信じていた」の「信じる」というのは、実は、真の信じる、真の信頼ではありません。

「思ってたのと違う」ともいうように、これは、「期待外れだった」ということで、

「期待外れになる」というのは、愛ではなく、恋(乞う)、恐れの状態です。

人も、神様も、「わたしの期待(恐れ)をなんとかするもの」ではないのです。なぜなら、恐れというのは、本当は、幻だから。

愛、奇跡というのは、常に「期待などははるかに超えて、想像を絶するもの」です。

 

 

「愛を与えてくれると信じていたのに、あるいは、相手とそう約束をしたのに、愛ではないものが与えられた、あるいは、愛を与えられなかった」の「愛」というのは、実は、「真の愛」ではありません。

なぜなら「愛」という、その定義上、「愛は、大いなる存在によって、与えられ続けるもの」だからです。

それが、「法則」「成就」「奇跡」「創造」「具現化」などを大前提としたときの、「愛」という言葉の意味、定義です。なので、国語辞典とかとは、もしかしたら、意味が違うかもしれません。

このことを、心が受け入れた場合、相手との関係でも、誰といても、どこにいても、何をしていても、愛を感じられる(そういうことが増えていく)ということです。

・・なので「愛以外のものが与えられる」とか「愛が与えられない」ということ自体が、不可能です。

もし、「愛以外のものが与えられる」とか「愛が与えられない」ということは可能という話をするとするならば、「奇跡」「成就」「創造」「引き寄せ」とかじゃなくて、「この世界の物理次元の話」になります。

物理的に考えれば、確かに「愛以外のものが与えられることは可能」ということになります。しかし、このブログでは、一回、物理次元の話は脇に置いておきます。(それがダメだとかじゃなくて、奇跡や成就などの話をするために、です)

参照ブログ:視座

 

 

「愛を与えてくれると信じていたのに、あるいは、相手とそう約束をしたのに、愛ではないものが与えられた、あるいは、愛を与えられなかった」

当時の自分を思い出して、そしてこれを書きながら、ふと、あの頃わたしは、「わたしが指定している通りの愛(偽の愛)」を求めていたのかもしれない、と思いました。

愛も求めていたのだろうけど、偽の愛も求めていたのかもしれない。そんなことが頭に浮かびました。

いずれにせよ、わたしは愛を求めていた、愛ではなく恋(乞い)だった、ということになります。

「わたしが指定している通りの愛(偽の愛)を、あなた、くれなさいよ」と思っている場合は、相手をコントロールしようとしている、ということもあります。

「相手からコントロールを求めている」ということも、意外とあるのですよ。

「コントロール」って、「愛」に、似ることがあるのです。(全然愛じゃないですけど)

 

 

・・あの頃、わたしは、偽の愛を求めていたのかもしれない。

わたしは、相手に偽の愛を求めて、相手は、偽の愛を与えてくれなかった、ということだったのかもしれない。

ということは・・。

相手は、本当に、愛を差し出し続けてくれていたんだ。

わたしが、相手が差し出してくれていた、愛を、見なかっただけだった。

わたしは、相手を見ずに、違うものを見ていた。

 

 

うわ〜。

これを書きながら、今、深い癒し。。。という感じです。。。

やっと、あの人の、愛に、届いた。

あ、でもね、この「愛」って、胸キュンとか、恋愛とか、性的対象とか、そういう類の話じゃないですよ。愛と恋は別物です。

 

ブログを2018年頃から読んでくださってる方が、もしいらっしゃったら、あの、わたしから「モラハラ」の名札を貼られていた、あの人です。

本当に、優しい愛を、ただ、向けていてくれた、だけだったんだ。

今、あの人が、大切な人たちと共に、とても幸せに暮らしているような、そんな感じが、すごくして、それも、すごく嬉しい。

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