「ほんとうの願いではない」の件について

ここ数日で「”ほんとうの願いではない場合”」についてのご質問がセッションで続いたので、補足記事を書かせていただきます。

※このブログのどの記事だったかわからなくなったのですが「ほんとうの願いではない場合は叶わない」と書いて、それについての補足です。

 

 

まず、最初に、ここでの定義を、はっきりさせておきたいと思います。

「ここでの」というか、宇宙法則(願望実現)の上での、定義、という感じでもあります。

内側が先、というか、内なる神とつながることが全て、外側はその反映、という感じです。

なので、自己啓発や心理学とは、また異なった視点からのお話となります。

 

 

「”ほんとうの願いではない場合”」

これについて、どのように書けばいいか、わからないので、祈ってみたところ、ある出来事を思い出したので、それを書いてみたいと思います。

わたしの、体験談です。

 

 

以前、スピリチュアリティの勉強会に参加したときのことです。

あれ、前も、このときのお話を、(別の角度から?)書いてたような。

重複してたらごめんなさい。

 

 

会場にはおそらく100人くらいかな、そのくらいの人たちが集まっていました。

スピリチュアルカウンセラーの方と、集まった人々100人くらい。

スピリチュアルカウンセラーの方のお話を聞いて、質問やシェアしたいことなどがあったらみんなの前で発言して、という時間もありました。

 

 

その方の勉強会は、以前にも参加したことがあるのですが、もともと「突然名指しで当てる」ということはない方だったのですが、

なぜか、わたしの中に、「絶対に当てられませんように(みんなの前で喋るように促されることがありませんように、という意味です)」という「考え」が浮かびました。

「不吉な予感」みたいな、感じです笑

かすかな、でも確かな緊張・・・身体にキュッと力が入る感じ・・・と共に。

 

 

けれども「絶対に当てられませんように。みんなの前で喋るように促されることがありませんように。ただひっそりと、こそこそと、学びを受け取り、誰にも知られずに、静かに、今日明日の勉強会を終えて、家に帰り着けますように」という「考え」が、自分の中で、大きくなることを、感じていました。

その「自我の考え、声」が大きくなることを感じて、しまいには「何だか、当てられそうな予感がする」という、嫌な予感にまで発展し、わたしは祈る(神に捧げる)ことにしました。

「神様!わたしは当てられたくないです。みんなの前で発言したくないです。誰からも注目されずにさっとひとりで行って、さっとひとりで帰りたいです。でも、何だか、当てられるんじゃないかという気もします。こわいです。この気持ちを、あなたに捧げます。この気持ち、このことを、あなたは必ず奇跡の道具として使ってくださいます。そして、完璧なあなたの采配をわたしが受け取れることを、本当にありがとうございます」と。

抵抗感、恐れ。

いきなり、なんだ、というほどの「殻に閉じこもっていたいモード」な願い、思いを、そのまま、丸ごと、神様に差し出しました。

 

 

さて。どうなったか。

わたしは、予感通り、当てられました。

この運び自体、ちょっとあり得ない、イレギュラーな感じでもありました。

なぜなら、先ほども書きましたが、そのスピリチュアルカウンセラーの方は「突然誰かを名指しで当てて、みんなの前で発言するように促す」ということが、ないと言っても等しいような方、だと思い込んでいたからです。念には念をで、わたしが「当てるなオーラ」を出していれば、なお安心、みたいな、そんなことまで、考えていました笑

しかし、「不吉な予感」通り、ちょっとした「アクシデント的」とも言えることがあり、みんなの前でわたしは発言することになったのです。名指しではなく、不思議な、プロセスを経て、そうなりました。

わたしのもとに、進行役の方が、マイクを持ってきた・・・それ以降は、頭が真っ白で、何を喋ったか、正直よく覚えていないというか、ただ「聞かれたことをそのまま話すことに努めた」という感じ・・・だったと思います。

真っ白なまま、聞かれたことをそのまま話して、なんとか、終わったと、ホッとした頃、会場そしてスピリチュアルカウンセラーの方から拍手を受け取りました。

これだけで、驚きな喜びが、わたしの胸に広がっていました。(でも、何を話したのか、全く覚えてませんよ)

さらに、これだけでなく、この後の当日と翌日の二日間に渡り、「わたしが話したことについて」たくさんの方から声をかけていただき、感謝の言葉をいただいたのです。

勉強会の中には「この方とお話してみたいな」と個人的に思っていた女性もいたのですが、その方からも声をかけていただきました。

わたしがみんなの前で発表しなかったら、このような素晴らしい体験はなかったでしょう。

もともとが、スピリチュアリティの勉強会で、スピリチュアリティを学んでいらっしゃる方たちなので「愛の受け取りの感度が高め」というのも、大いにあったと思いますが、わたしにとっては、予想もしない、とても素敵な体験で、この二日間を通して、わたしは「ありがとうと言ってくださって、ありがとうございます」を何度も、思ったのです。

その広がりの中で、過ごした二日間でした。

 

 

さて、勉強会直前の、「考え」と、祈りを、思い出してみましょう。

「神様!わたしは当てられたくないです。みんなの前で発言したくないです。誰からも注目されずにさっとひとりで行って、さっとひとりで帰りたいです。でも、何だか、当てられるんじゃないかという気もします。こわいです。この気持ちを、あなたに捧げます。この気持ち、このことを、あなたは必ず奇跡の道具として使ってくださいます。そして、完璧なあなたの采配をわたしが受け取れることを、本当にありがとうございます」

  • わたしは当てられたくないです。
  • みんなの前で発言したくないです。
  • 誰からも注目されずにさっとひとりで行って、さっとひとりで帰りたいです。
  • でも、何だか、当てられるんじゃないかという気もします。こわいです。

↑とにかく、このような「考え」が、なぜか突然、「不吉な感覚」と共に、浮かんできていました。

「当てられたくない」「みんなの前で発言したくない」「コソコソっとひとりで参加して、ヒソヒソっとひとりで帰りたい」・・・これは、わたしのほんとうの願いではなかった、ということです。

 

 

祈りによって、偽の願いは、ほんとうの願い、素晴らしい、驚きな喜びの体験として、受け取ることができたのです。

 

 

これを、書いていて、すっごい極端な例え話が浮かんだのですが・・・

 

たとえば。

わたしは誰かが玄関のチャイムを鳴らす予感を「不吉な予感」として感じ、

わたしはひとりで「家にゴミを持ってこないでください!」と、誰もゴミなんか持ってきてないのに被害妄想しかけていたけど、

祈りによって、チャイムが鳴ったときに自然とドアを開けることができて、そしたら「花束とサプライズプレゼントつき」を受け取れたということです。(誰かがくる予感だけ当たってた笑)

 

 

なので、祈ると、こんなふうになっちゃうので、

「いいや、家にゴミを持ってこようとする人がいるのはわかりきってるので、誰もごみを持ってこない方法を知りたいです、どうしたらいいのか」

という「ほんとうの願いじゃない願い」を叶える方法ではないのです。

最高の幸せを自分とみんなが体験する「神技」を、形(現実)にしてくれる、それを受け取れるということなのです。

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