本来の自分自身に戻る・・・
これは「はい、自分自身に戻りました。終わり。あとは安泰」みたいなものではなくて、
戻り続ける、という表現のほうが、しっくりきます。
というか、本気で本来の自分自身に完全に戻ったとき、もうこの世界に存在しないのではないか、と思います。
一回、深い気づきを受け取ったからといって、「完璧な人間になる」ということはありません。
そもそも「完璧な人間」はいません。けれども、わたしたちは全員、完璧な存在、完璧なスピリット、ではあります。
それで、本来の自分自身に戻り続けるということは、解放、癒しを受け取りつづけて、
たくさんの驚きな喜びを伴う奇跡を受け取りつづけて、
幸せというか、安心というか、そういう感覚が深まっていく、広がっていく、
そういう幸せなことだと思います。じゃないと、まず、わたしが続けられていないと思います笑
それでも、いつもいつも、何もかもが「(自分が)思った通りの幸せ、スムーズ、予定通り」とは限りません。
エゴが剥がれ落ちるとき、というのは、痛みを伴う、ということは、あると思います。
自分を振り返っても、クライアントさんなど、いろんな方のお話を聞いてきて、思うこと、現時点での私見なのですが、
「自分が大きく広がりたいとき」というのは、大抵、「困った人、困ったこと」に出会すものかもしれません。
困った人。困ったこと。
悩み、問題、執着してしまう願い。思い通りにいかせたいのに、思い通りにいかないこと。
嫌いな人。
「苦手なのに、毎日顔を合わせないといけない」ような人。
「ちょっとあんまりでしょ」と思うような人。
自分の価値観を大きく揺るがしてくれる人。
プライベートでも職場でも、家族やパートナーや仲間などで、本当は仲良くやっていきたい、大切に思っている、愛しているのだけれど、分かり合えなくて、衝突してしまう人。
「困った出来事」というときも、「我慢」を外して、自分の内側に耳を傾けてみると、
「受け入れ難い人」「ダメだとジャッジ、非難したくなる人」「(ピンポイントでこの人、というわけじゃなくても)無意識的に見下してきた人」がいたりすることがあります。
そして、こういう、受け入れ難いと思うような人、事柄ほど、
「自分が大きく広がるために、つまり、本来の自分自身に戻ってくれるために、現れてくれた天使。チャンス」みたいな感じなのです。
「みたいな感じなのです」と書きましたが、そのように認識できるかどうか?というのが、意外と「大きな一歩」なのかもしれません。
「エゴが剥がれ落ちるときの痛み」というところでいうと。
わたしも、何度かありました。
例をあげると・・・
この思いを手放したら、あるいは、このことを受け入れたら、
自分という特別で個別な存在が、なくなってしまう!
この「特別な才能、感覚」が、なくなってしまう!
とか笑
「この過去を持った、このわたし、アイディンティティ」を手放したら、大変なことになってしまう!
とか笑
細かく言えば、もっと出てきそうな気がしてきました。
何かしないと、大変なことになってしまう!
とか。
愛を受け取ったら、負けを認めることになる!(まだまだ闘っていたいです。幸せより正しさを望みます!)
とか。
具体的に思い出しながら書くと、なんかアレですが、
エゴが剥がれ落ちるとき、というのは、なんともいえない不快な、怖い感じになることがあります。
本当に恐れているものは、愛であり、神とひとつであること、完全なる一体性、なのですが、
当然、エゴはこのことを嫌がります、全力で逃げようとします。(抵抗)
その抵抗の現れ方は様々ですが、こういったことも含めて、ただ認めて、受け入れていく、そしてゆだねつづけていくだけで、よかったのですね。