自分を愛する。自愛。について。
「自分を愛する(自分を大事にする)」ということで、
・(多忙な人が)休みの日、休みの時間を取るようにする
・部屋を掃除したり、自炊して食事を作ったりする
・(おしゃれが後回しだった人が)おしゃれに気を使うようになる
・やりたいと思っていたことをやる
・褒め日記をつける
・・・ということを聞くことがあります。
確かに、こういったことも、大切なことです。
こういったことが今まで後回しだった人にとっては、とても大切なことだし、
こういったことが「できなかった」人にとっては、こういったことが自然とできるようになったとき、それはとても嬉しいことです。
褒め日記なども、恐れ・自己否定が強すぎる状態のときには、効果を発揮してくれる、ということはあると思います。
けれども、自分を愛する、ということは、階段のようになっています。
「この段に登ったら、次の段」みたいな感じです。
これは、ゆるし、祈りも、そうです。
一段目を踏んだら、二段目がきます。二段目がきたら三段目がきます。
三段目がきたら、四段目のはずなのに、なんだか一段目に逆戻りしたように感じる、ということもあるのかもしれません。
でも、一段目でも何段目でも、いつでも、手すりは同じというか。
手すり自体はシンプルな感じだし、「手すりの使いこなし方」とかもないほどなのです。
二段目がきているのに、一段目にとどまろうとしていたら、多分、自分が苦しくなります。
この自分が苦しくなるというのは、ただ心が苦しいとか、漠然とつらいということもあるかもしれないし、
「こんな出来事が起こった」というようなこともあるかもしれません。
どちらも同じことだからです。
それで。
自分を愛する、自分をゆるす、祈る・・
ということについてのリクエストはたくさんいただくので、ブログにもはっきり書きたいと思ったこと。
それは、「自分」がエゴと強く同一化している場合、「自分」が「自分」を愛するということは、不可能です。
この「(エゴと強く同一化している)自分」というのは、例えば、
自分のことを罪深いと信じ込んでいたり、価値がないと信じ込んでいたり、無条件の愛にふさわしくないと信じ込んでいたり・・します。
この「罪深い自分」が自分のことを愛することは、不可能です。
罪と愛は、どう逆立ちしても、同居できないからです。
「価値がない自分」が「価値がない自分」のことを「愛する」と思ったとしても、
「価値がない自分でもいいよ」などという、おかしなことになってしまいます。
「あなたは価値がない。それでよい」というのは、どう考えても「愛」ではないです。
「無条件の愛にふさわしくない自分」が「無条件の愛にふさわしくない自分」を、愛する、というのは、なんというか、愛しようがないというか、なんというか。
だから「自分を愛する」というとき、自分以外の何か、誰かとつながる必要があるのです。
自分以外の何か、誰か、というのは、例えば、「自分の中にある自分より遥かに大きな何か」です。
「自分の中にある自分より遥かに大きな何か」を、ここでは、神様とか、聖なる存在と読んでいます。
そして、同時進行で重視していきたいのが、この、
自分が自分のことを何だと信じているか?(そして、くっついてくる様々な信念、価値判断)
何が土台か?
です。
常に、ずーっと、恒常的に、罪悪感や無価値感などで苦しんでいる、というわけでもないと思います。
よく観察してみれば「この瞬間はそうではない」という瞬間(時間)もあると思いますし、
調子がいい日があったり、調子が悪い日があったり、いろんなときがあると思います。
総合的に見てどうか、は、一旦脇に置いといて、いろんなときがあると思います。
そして、表面的に、「わたしは愛されるに値します」といっても、心の奥では「永遠の愛にふさわしくない」と信じ込んでいる、ということもあります。
この、
自分が自分のことを何だと信じているか?(信念、様々な信念、価値判断)
何が土台か?
ここを、自分で見ないまま、「自分のことを愛そう」、としても、「なんかよくわかんないな」となって当然です。
それは、「自分」がエゴと強く同一化している場合、「自分」が「自分」を愛するということは、不可能。
この「(エゴと強く同一化している)自分」というのは、例えば、自分のことを罪深いと信じ込んでいたり、価値がないと信じ込んでいたり、無条件の愛にふさわしくないと信じ込んでいたり・・します。
「罪深い自分」が自分のことを愛することは、不可能。
罪と愛は同居できません。
「価値がない自分」が「価値がない自分」のことを「愛する」ことも、不可能。
「価値がない自分でもいいよ」などという、おかしなことになります。
「あなたは価値がない。それでよい」というのは、どう考えても「愛」ではないです。
「無条件の愛にふさわしくない自分」が「無条件の愛にふさわしくない自分」を、愛する、というのも、不可能。
そんな自分が「誰かのことを愛そう」「誰かから愛されたい」と思ったとき。
あなたは、愛しているし、愛されています。
でも、「わたしは、無条件に、愛しているし、愛されている」ということを、自分がわからなくなってしまうのです。
ドラマを作ってしまうのです。
・・ここから先のドラマの内容は、色々あるでしょう。
でも、すべての「原因」は、ひとつであって、今ここにある、といいます。
このことが、よく、わからないから、どういうことかわかりたいと思う。
体験によって、実感したいと思う。
何度でもそう思う。