おはようございます、ringoです、雑感?です。
宗教とは?
宗教は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。 なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」、としている。(Wikipediaさん参考)
じゃあ、新興宗教とは?
新宗教または新興宗教とは、伝統宗教と比べて比較的成立時期が新しい宗教のこと。日本では、幕末・明治維新による近代化以後から近年(明治以降)にかけて創始された比較的新しい宗教のことを言うが、江戸時代に起源を持つところもあり、それなりの歴史と伝統を確立している団体も多い。実に多種多様な団体を包括した用語であり、伝統宗教と比べて比較的新しいというだけで、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。戦前日本の宗教団体法下では、公認された宗教は、神道、仏教、キリスト教の三教のみであり、非公認の宗教団体は、行政上「類似宗教」と呼ばれた。(Wikipediaさん参考)
【宗教】
わたしは、宗教や新興宗教、またはその信者を嫌ったり、否定したり、批判したり、しているわけではありません。
わたしのだいじな友達に、新興宗教の信者(二世か三世?)がいます。
この友達とは「パワースポットの情報交換」をする程度で、宗教や真理について話すことは、そういえばなかったなぁ。
彼は、盆暮正月などは実家最優先、ご先祖様最優先。
おもしろかったのは、なんかの話の流れのなかで、「俺も布教活動のとき・・・」みたいなことを、すごいフラットに話していたこと。
彼は、仕事ができて、協調性があって、友達が多くて、先輩や上司に可愛がられて、人のことを悪く言えない、言えないのか思えないのか、そもそも思ってもないのか、ともかく、とても、やさしい、人です。天使みたいな人だな。
ちなみに、うちの実家は、
- (義父方)浄土真宗
- (義母方)浄土真宗
- (父方)臨済宗妙心寺派
- (母方)浄土真宗
です、仏教です、おそらく、日本でよくある感じのやつ、です。
お葬式や法事のときなど、お坊さんに来てもらうか、お坊さんのお寺に行くか、で、わたし以外の家族親族は、毎朝おつとめしてます、とかでもないです。
で、わたしは、古神道、神道、真言密教、キリスト教、いろんな宗教に、興味津々です。
これは、別に、「教養として」みたいな感じです。
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いろんな宗教、新興宗教があって、それぞれ違う部分もあるのだろうし、共通点もあるようなこともあるかもしれないし。
わたしは、そのすべてを「ある程度深く学びました」とか「研究しました」とかではないので、なんとも言えません。
そもそも、スピリチュアリティでも、一元論でも、二元論スピリチュアルでも、「人間の力や自然の力を超えた存在」でも、エネルギー・気でも、宗教でも、こっち系というのは、どうしても「危険」になりやすい。
またちょっと違うかもしれませんが、自己啓発、コーチング、催眠系、心理術、メンタルなんとか、みたいなのも、危険になりやすい。
危険になりやすいってだけで、全部が全部、危険です、というわけでもないでしょう。
しかし、こっち系は、すぐに「わかったつもり」になり、「高揚感・万能感・優越感(これぞマーラ)」は出てきやすいのです、そもそもが。
そもそもが、ということであり、そうなってしまう「人」が悪いとか、そもそもそういう話じゃないんです。しかし、本人が気づくとか、認めるのは、非常に難しいものです。経験者は語る、ですよ(笑)
映画「リトルブッダ」(※主演キアヌリーブス様)にだって、出てきましたよ、マーラ(たぶんあれマーラだった気がする)。
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なんというか、「神・真理・目に見えないもの」自体が非常に取扱注意みたいなところがありますが。
それ以外でいうと、集団における、マウンティング、同調圧力、勧誘。
「教え」を自分なりの解釈として、自分が神様になり、人が人を裁こうとすること。マインドコントロール。
これは、宗教・新興宗教に限ったことでは、ありません。
マウンティング、同調圧力、勧誘、マインドコントロール。これは、会社内、友達間、ママ友間、で、余裕で、ありますよ。
「自分が神様になり、人が人を裁こうとする」これはもう、溢れかえってますよ、あの、大人気の「ジャッジメント思考」ですよ。
ただそれだけです。
なので、新興宗教自体を、わたしは、否定したり、嫌ったり、しているわけでは、ありません。そんなこというなら、世に溢れかえっております。だから、昔はよく、死にたくなっていました。今は、死にたいとか、絶望とか、無力感とか、なくなりましたけれども。
というか、「宗教が嫌い」という場合は、実は「宗教が好き」なのです。そして、それについても、わたしは、否定もなんもしてません。
【疫病予防の注射】
クライアントさんには、「注射しっかり打ちます派」と「注射打つわけないでしょ派」と両方、いらっしゃるのです。
わたしは、それを、どちらも、否定も、否定から持ってきた肯定も、しないのです。
【加害者と被害者】
クライアントさんには、「被害者です」という方も、「加害者です」という方も、いらっしゃるのです。
「虐待を受けてきた」という方もいらっしゃれば、「虐待のようなことをしてしまう」という方も、お見えになるのです。どちらがいいとか、悪いとか、そういう話ではないのです。
というか「虐待をしました、ひどいことをしました」と「認める」、そして、誰かに「話す」ということが、どれだけ、大変なことか。否認しているうちは、内側とは出逢えないですし、加害者というエゴと同一化している、ということになります。(これを、わたしは、責めるような気持ちで書いてません笑)
加害者と被害者は表裏一体、なのです。どちらも、自分にあった、と、気づいたとき、超越となり、「ご報告(現象的具現化的ミラクル)」みたいなことになり、こういうご報告もたくさんいただいておりますし、わたし自身経験者です。
わたしは、どんなときでも「クライアントさんを映す鏡」でしかなく、「肉ではなく霊をみなさい」を、大事に、しているだけ、です。
すべては、たったひとつの、愛、なのです。
【こわいニュースをきいて】
こわいニュースが耳に入り、わたしも、なんというか、なんともいえない、嫌な気持ちがすることは、あります。
でも、「人」を否定したり、責めたり、したいわけじゃない、ということを、いつも確認できるのです。内側に、感じられるのです。
「絶対に許されないことです」という言葉がありますが、たしかに「許せない、というあの感覚」ほどきついものはない、と言いたくなるほどですが。
人には、人を許す機能はついてないのです。
他者のことを許してあげる、など、そんな機能はついてないのです。
「あの人を許してあげる」って、どこか、見下しているような、幼児的万能感のような、なんというか、そういうなにかを感じるのです。こういう「時期」「通過点」がある、ということは、あると思いますが。
もしかしたら、自分のことも、自分で、許してあげるなんてことも、不可能なのではないでしょうか?可能な人もいるのでしょうか?
この「自分のことが許せない」というところにまで辿り着き、苦しむ、という人は、もしかしたら、「神様」とか「真理」とか「神秘」とか、そういうものに、触れようとしているのかもしれません。
安心安全の愛とともにある、本物を超えた本物。
ただ本物。
これは、知的作業や頭の理解や霊能力だけでは、決して、わからない、できない、領域なのです。
霊能力が本物だから、とか、「気」を使いこなせるからって、
霊性が成熟しているとか、神(愛)に基づいているかとかって、また別の話です。