出来事自体が「自分の責任」とかではない(2)

内観をしていない場合など。

「外側が先、内側(心の反応、感情、思考、思い込み)があと」

という感じが、どうしても、してしまいます。

 

 

「内観をしていない場合」と書きましたが、内観をしていても、やはり、本気で心を決めて、シフトして、継続していないと、

「外側の何かが先にあって、自分の心の状態はそれに左右される」

という感じが、することがあります。

この「外側が先、内側があと」というのは、極端な言い方をすると「外側のせい」ということになります。

それで「外側のせい」ということについて、全く疑問視していない状態、盲点の状態、というのは、非常によくあることです。ほとんどの場合がそう、なのかもしれません。

 

 

大切なのは「外側のせい(外側が先、内側が後)になってました!」と気づけること、認められること。

より早く、より軽やかに爽やかに、気づけること、認められること。

そして、祈りによって、訂正をお願いできること。

これを、スムーズにできること。

このことが大事なのであって、「人のせいにするとはけしからん」みたいな話ではないです。

外側の誰かや何かのせいにしているとき、それを正当化しているときも含めて、本当は、つらいのは、自分なのです。でも、平気なふりを演じることも、できます。

 

 

わたし自身は、例えば昔、いわゆる「モラハラ被害者」とか「なんとか被害者」とか「機能不全家庭」ということがあって、

そして、その「レッテル」のようなものは、まるで自分の意に反して「第三者から指摘された」というように見えましたが、

それは、すべて自分が作った、すべて自分が望んでました、ということです。

わたしが、当時、恐れが強過ぎて、罪悪感が強過ぎて、被害者意識を信じ込み過ぎていて、

決断する力が自分の中にあることなんてすっかり忘れて、自らその決断力が外にあると思い込んでいました。

自分が、監督、脚本、編集、なんやらかんやら、すべてを自分一人で作り上げました、自作自演でした、ということです。

 

 

とはいえ。

とても苦しい体験をした、そのような環境にあった、今そうである、という人に対して、

「わたしだって、辛い経験をしたんだからわかる」とか「わたしだって、辛い経験をしたんだから、あなたもきっと大丈夫だ」などと言うのは、大変おこがましい、傲慢で、的外れはことだとも、思っています。

実際、昔、「自分はこれだけ苦しい体験をしたんだから、きっと同じように苦しい体験をした人の力になれるはずだ」と思っていた時期もあったのですが、

あるとき、大切な人が、とても苦しい渦中の中にいて、それを目の前にして、わたしは何もできない、と思いました。

何が正しいかなんてわからなくなって、それこそ、祈ることしかできませんでした。

 

 

誰かの顔色を伺ったり、「こうすべきだ、しないべきだ」と言うことばかり考えてしまって、

感情を我慢しすぎると、抑圧しすぎると、

「決断の力、選ぶ力は、自分の中にある」

ということがすっかりわからなくなってしまいます。

 

 

「心に原因がある」「内側に原因がある」「すべて自分で作ってます」という旅は、

その実践を自分で望んでいたとしても、抵抗が強く働き、受け入れがたく感じてしまうこと、というのも、よくあることです。

それでも、自分のペースで、外側にあると思っていた原因は内側にあるんだった、と、思い出していくことで、決断する力が自分の中にあることが、ハッキリと、思い出せてきます。

  • URLをコピーしました!
目次