出来事自体が「自分の責任」とかではない

内側に原因がある

心に原因がある

というと。

「この病気はわたしのせい、わたしの責任なのでしょうか?」

「この事故はわたしのせい、わたしの責任なのでしょうか?」

という、なんというか、ちょっと、自分を責めるような、裁くような、雰囲気で受け止められる場合がありますが、

そうではないです。

 

 

自分のせいだという話でもありませんし、もちろん、相手のせいという話でもありません。

「心に原因がある」というところでいうと、「不摂生をしたのが原因」という角度からの話でもありません。

その出来事自体が、自分の責任である!ということではないです。

出来事自体は、本来はニュートラルなものです(例えそう見えなかったとしても)。

 

 

着目していくのは「その出来事をどのように捉えたか?どのように反応したか?どのように見たか?どのように感じたか?」というところで、さらに、

「そのように見た、感じた、心の奥にある信念を選ぶという決断に、原因がある」ということで、

その原因を、自分は、選び直すことができる、

原因を愛と入れ替えたいと願い、「愛以外の信念」について正しいという決めつけを手放して

愛を受け入れる責任がある

という感じです。

なので、責任があるのは、愛を受け入れる責任がある、ということです。

愛を、奇跡を、受け入れたいと願う、祈る責任がある、ということです。

 

 

例えばですが、

「自分は自分以外の、外側の何者かから攻撃されることが可能な、外側に翻弄される無力な存在である」

という信念を持っていることに気づくことができた、という場合。

「自分は自分以外の、外側の何者かから攻撃されることが可能な、外側に翻弄される無力な存在である」

↑この考えについて「正しくありたい」「絶対にそうだ」と言い張りたいか?と問いかけます。

そして、また、

「自分は自分以外の、外側の何者かから攻撃されることが可能な、外側に翻弄される無力な存在である」という信念を選び続けることで、

そのように感じる出来事を、これからも経験したいだろうか?

この世界の被害者、犠牲者でい続けたいだろうか?

無力感をこれからも感じて、無力な存在だと苦しみたいだろうか?

と、自分に問いかけます。(どんな答えが返ってきたとしても、それを理由に自分を裁く必要はありません)

 

 

さらに、それとも、そのような考え・信念を手放して、全く別の見方・奇跡を経験したいだろうか?

犠牲者も被害者も加害者も存在しない、この世界を超えたところにいきたいだろうか?それを見てみたいだろうか?

と、自分に問いかけます。

ほんのちょっとでも「もう、同じことの繰り返しはもうやめて、違う見方で見てみたい。奇跡を経験してみたい」

と思う場合は、その信念を手放します。

手放すと同時に「自分では想像もできない何か」が与えられる、という感じです。

 

 

「見方、捉え方」と書きましたが、これも、よく引っかかりやすい(?)ポイントがあります。

ここで、自分の頭で「違う見方とは、こういうことだ」「違う捉え方とは、こうだ!」と、

自分の頭で答えを出さないことは、非常に、非常に重要です。

自分の頭で「これってこういうことだ」と答えを出す、ということは、非常にあるある、です。

非常にあるあるです。

非常にあるある過ぎますが、なかなか見落としやすいというのか、ハマりやすいというのか、そういうところでもあります。

「あらかじめそのように指導を受けておきながら、見事にこれと同一化していたことに気づいた」という体験、わたしはあります。笑。

 

 

自分の頭で答えを出したものではない場合は、必ず、「ハッキリそうだとわかる体験」みたいな感じになります。

しかし、自分の頭で答えを出しても「納得」「腑に落ちる」となったりする場合もあるので、

この辺りは、練習していくこと、経験を重ねていくことで、磨かれていくものかもしれません。

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