わたしは、ずっと、「わたしは悪くない」と、心の中で唱えると、とてもホッとしていました(笑)
こりゃ一体なにか、というと。
わたしがわたしのことを、ひどく責めている、ということだったのです。
わたしの中に、わたしに対して「お前は罪だ、有罪だ、裁かれるべき、罰せられるべきだ!」と言ってくる「コワイ存在」がいました。
この「コワイ存在」は、ずっと隠れていましたので、わたしはずっと、全然、気づいていませんでした。
普段は「平和です」みたいな顔をしていられますが、定期的に、誰かから責められているように感じたり、罪悪感や恐れが襲ってきたり、していました。
わたしの場合は、交友関係が広くありませんので、この「誰かから責められている感じ」の「責めてくる人」によくなる人は、母でした(笑)
今思うと、まぁ、ほんとうに、綺麗に投影してますねぇ、って感じですが、当時のわたしは、ほんとうにわからなかったのですよ。
ほんとうに、母が、責めてきているとしか、思えなかった。
それで、母に対して、ギスギスした態度をとっていたら、「それ、自分が後ろめたいだけなんじゃないの」なんて言われて、さらに責められている気が、していました(もう、書いてて、笑えてきます笑)
でも、まぁ、母のいう「それ、自分が後ろめたいだけなんじゃないの」というのは、ある意味、その通りなのですよ。
わたしが、わたしのことを、悪いと、思い込んでいた。
何についてだったかな?
ああ「この歳で、実家に暮らして、働きもせず、なんやらかんやら」みたいなことなどは、ずっと後ろめたかったでしょうが、でも、当時は隠していたので、自覚がありませんでした。
自分が自分を、責めていることに。
自分を責めるだけ責めて、でも、それを認めたくもなくて、「なんとかしなければならない」とずっと思い続けてきたように思います。
こういうのを、自分いじめと言いますが、当時は、わかってなかった!
そうして、わたしは、自分のことを悪いと思い込んでいましたので。
悪いと、信じ込んでいましたので。
もう必死で「わたしは悪い教」を崇拝していましたので、疑いもしませんでしたし、自覚もありませんでした。
でも、罪悪感、後ろめたさみたいなものは、なんだか、いつも、あるようなないような、そんな感じでした。
これは、わたしを使った「例」ですが、
このようにして「わたしは悪くない!」と言いたい場合、「わたしは悪くない!」と思ってみると落ち着く場合、というのは、
自分が自分を、責めています。裁いています。罰せられると脅しています。隠れて、です。(これがエゴのお仕事です)
自分が自分を、です。(エゴのお仕事と同一化することによってです)
このエゴ、というのが「コワイ存在」で、あるとき、わたしに「このままじゃ臓器売り飛ばすしかないんじゃないの」などと言ってきた存在でもあります。笑
他のあるときには「ありのままの自分では愛されない」とか「自分は幸せにはなれない」とか、ありとあらゆるコワイことを言って、脅して、急かし立ててきてました。笑
こういうのは、神妙に深刻にエゴと同一化している場合ではないのです。
この「悪いことをしてしまった」と思っている自分を、よくみてみて、その内容を、確認してみます。
その先の、
わたしはここから、
どのようなメッセージを受け取れるのだろうか?
どのような優しい展開を受け取れるのだろうか?
どのような学びを受け取れるのだろうか?
というのは人それぞれ、そして、そのときどき、だと思います。
0歳から死ぬまで、すべて、完璧にできる人なんて、いないと思うくらいでちょうどいいのではないでしょうか。
最初から間違わないことよりも、失敗しないことよりも、「自分をただみて、認めて、受け入れて、ゆるす」というこのステップが、重要です。
でも、これって、義務教育で、習わないですから、それができなくて自己否定し続けた自分をさらに責める、みたいなことまで、する必要はない、です。
したら悪いというか、する必要がないです。
よく「ズバリ系」の方(?)は「時間の無駄」ということもあるようですが、まさにそうで、する必要がないことをしていますよ、ということです。