【逆から学ぶ】絶対幸せにならない方法

こんにちは。ringoです。

ごめんなさいね、こんなコワイブログタイトルで。

しかし、世の中の、この世界の、エネルギー的に、アセンション的というか、「天変地異的な」雰囲気なことが、個人個人でも、もう合わなくなってきていると、感じています。

いつからだったかな。去年の年末くらいだったかな。

2019年だったか20年だったか、数年前からそれを感じてもいましたが、だんだんとそうでしかない感じがしてきていて。

今年に入ってからは、それをすごく感じていました。

 

 

代わりにどんな感じがしているかというと、

淡々と、とか、

日々練習、とか、

そのままでいい、とかです。

 

 

なので、例えば、今、

  • エゴの中に入ってしまって、同一化してしまって、辛い
  • 苦しみがずっと続く
  • 自信をなくしてしまっている
  • 「できない」「むり」「自己否定」から身動きが取れない感じ
  • 望まない同じパターンを繰り返している、同じパターンの思考が何度も出てきて格闘してしまう

というような場合は、その自分を、認める。

裁かずに、「罰を用意する」みたいなことをせずに、ただ、ああ、そうだなぁ、と認める。受け入れる。

このほうが「早い」「時短」「簡単」です。

苦しいとか、辛いというのは、過去の誰かとの関係を現在に投影していないか、過去の誰かから言われたことを取り入れたままにしていないか、というところも見ていきたいところです。

 

 

それで、例えば、被害者意識や愚痴不平不満などを、

正当化する、例外を設けたままにする、ということをしたままだと、それの具現化も早いです。

この自分を裁くとか、否定するとかではなくて、

被害者意識や愚痴不平不満

↑これに、なんのメリットもないということを、理解したり、

これは本来の自分でもなんでもない、というところまで、確認したいと思えるか?思い続けられるかどうか

そして、本来の自分で生きたいと思えるか?思い続けられるかどうか

ということが重要です。

これが、内側に原因、創造性、願い=叶う、引き寄せ、です。

 

 

なので、例えば、例えばですよ。

まだまだ、親のせいにしたい気持ちがありながらでも、でも、このように被害者意識を持っていて、外側に自分(エゴ)の罪悪感を投影し続けていたとしても、

これを「もう無理」と決める代わりに、

「自分が自分のために、毒親と見るのではなく、別の見方で見てみたい」あるいは「被害者意識を手放したい」あるいは「被害者意識を持つ必要はない」と、まず、自分が心から思えるかどうか?という感じです。

※思えない、思いたくない場合は「そのままでいいよ」、という感じ。その自分を責める必要はない。

その上で、宣言文して、手帳などに書いておくと、さらにいいともいます。

「わたしは、被害者意識を手放します」「毒親というのをやめます」みたいな感じで、です。

まだまだ、親への怒り・イライラ・恨みつらみなどが出てきたとしても、このように、わたしがわたしのために書く、という感じです。

それで、できないときがあったとしても(親のせいで、と思う日があったとしても)、それで自分を責める必要はなくて、そのときはそのときで「あ、忘れてた、被害者意識を手放したんだった」と、思い出す、という感じです。

重要なのは、これと格闘しないこと。です。淡々と、練習です。

スクワットだけ毎日続ける感じ(がっつりな筋トレというより、できる範囲でマイペースでつづける)、

毎日30分ずつのウォーキングみたいな感じですよ。これが素晴らしい。

これの方が、エネルギー的にあいます。

 

 

さて。前置きが、すごく長くなりましたが、話をタイトルに戻します。

【逆から学ぶ】絶対に幸せにならない方法は、「自分の意思で決めない(外側に確信をおこうとする)」です。

自分の意思で決めない、決断しない、という心の癖(隠れた心の癖となってる方も大勢いらっしゃいます)があると、絶対に幸せにならなくて、すみます。

 

 

具体的にいうと、どういうことかというと。

「本にこう書いてあったから(だからそうする)」

「先生から、スクールで、こう習ったから(だからそうする)」

「占い師さんがこう言ったから、メンターがこう言ったから(だからそう)」

「〇〇さんが、〜〜って言われたから、だから、わたしは〜〜なんだ」

などなど。

なんというか「相手、専門家などの外側が、正しい、主体」という感じというか。

あとは、重要なことを、相手に決めてもらうとか、「相手が決めた・だからわたしは」という思考癖、などです。

 

受け身なことが、悪いわけではないのですよ。

受け身な方で、こういうお話(引き寄せや潜在意識や現実創造など)などがお好きな方は、どちらかというと、まずは、直感・自分の感覚を磨いて、信じていくといいと思います。

※そのために、鏡の法則でゆるしたり、ジャッジやコントロールに意味を置かないでいく、という感じです。

なぜなら、受け身な方は「パッと入ってきたものを受けて、感じて、気づいたら動いてました」みたいなことが多くて、これ自体は、直感磨いていくと、素晴らしい才能です。

 

絶対に幸せにならない方法としての「自分の意思で決めない」というのは、

このような、ピュアで研ぎ澄まされたご自分の感性で踊るようにして幸せな方向へと動いていく、感じ

とは、まるで別次元の話です。

 

 

絶対に幸せにならない方法としての「自分の意思で決めない」というのは、

単刀直入に書くと、「人や外側を神だと思い込んでいて、その外側の神に決めてもらいたい(他責、責任を外側におく)」という状態です。

被害者意識とも言えるし、支配ー非支配の状態とも言えるし、依存とも言えます。

もうちょっと別の書き方をすると、本来の自分の素晴らしさ、内なる神聖を信じていない、ということです。

だから、目の前の誰かの愛を信じることができないのです。

「目の前の誰かの愛を信じることができない」これは、普段は大丈夫な人でも、一番大事な相手、一番大事なシーンで、これをやります。

なぜ、断言するかというと、鏡の法則、法則、というところで言うと、そうなってます、と言う感じですし、

これは、わたしが2018年からのringoセッションの経験的にも、そして、自分の経験を振り返っても、見事に当てはまることだからです。

 

 

そして、この「自分の意思で決めない(外側に確信をおこうとする)」と言うことを、続けていると、

なぜか、ずっと、よくならない感じがしたり(セッション、カウンセリング、セミナー、セラピージプシー)

誰かが自分のために教えてくれたこと(そして自分から聞きに行ったこと)でも、「できない」となったりします。

 

 

(1)「できない」のは、いいんですよ。いいというか、できないから、ダメ、などはありません。ここは「そのままでいい、そのままでも尊い、どんな自分も尊い」なのです。それを、コツコツ、認めていくことが、大切です。

(2)そして、少しずつ、自分のペースで、自分がどうしたいかどうか?に、素直に正直に、耳を、心を、傾けていくことです。

※ちなみに、この(1)をしてないまま(2)だけをしていらっしゃる、「一般的に見ると、すごいデキる人」多いです、多すぎます。自覚症状としては、心が疲れてると思います。これで、マッチングアプリとかしても、マッチングアプリ疲れする、あるいはうまくいかない、スピード離婚した、と言うご相談多いです。そりゃそうです、という感じです。

 

 

どんな自分も、認めていっていたら。

それが、たとえ、絶望的なことだったとしても、憂鬱なことだったとしても、おどろおどろしいものだったとしても。

どんな自分も、認めていっていたら。

光を見た上での、そのままでいい、と認めてくれる人、優しいあたたかい声をかけてくれる人、が増えてきます。

光を見た上での、となぜ、強調して書いたかというと、これは、決して、「傷の舐め合いのような感じ」とは、全く違うからです。

 

 

そして、この「自分の意思で決めない(外側に確信をおこうとする)」ということは、自覚しにくいというよりかは、

「薄々自分でも気づいているけど、認めようとしない」

状態の方も多いです。

もう、認めた方が「時短」です(笑)

 

 

ここに書いたことは、わたしも、経験があります。

わたしの場合は、自分が無知だったということもあるし、気質的に恐れにエネルギーを注ぎすぎて膨れ上がっていたということもあります。

というか、「なぜそうなったのか」などは、意味がないというか、「どのような書き方もできる」という感じが、今はします。

 

 

だから、この「自分の意思で決めようとしていなかった」ということを、認めることは、最初、なぜか、とても、恐ろしい、裁かれるような感じに、感じていたこともあります。

「負けを認める」みたいな気持ちにも、なっていたかも、しれないです。

でももう「エゴに勝とうとしても無駄ですから、エゴに降参する方が早いです」という感じですが、なんとかしたかったのでしょう、当時のわたしは。

だから、それだけ、エゴに降参すること、エゴに対して負けを認めること、「自分はエゴに対して無力です、エゴに勝とうなどは勘違いで、わたしは間違っていました」と認めることは、難しいというか、時間がかかる、という感じです。

そして「そうか、時間がかかるものなのか」と認めた方が、これまた、逆説的ですが、時短です(笑)

でも、おかげで、このようにして、「全体像」をテキストにできます。

 

 

どんな自分も認めて、受け入れる。

そのまま、動かさない(そのままでいい、というのは、こういうことです)。

 

 

そして、この「自分で認める」というのは、自分でやるしかないです。

人から認めてもらって、それから自分も自分を認める、というのは、不可能なんです。

 

 

すごく、しつこく書いたような、気がしますが、その上で「選べる」なのです。

「自由に、自分の感覚で、選べる」「内側との信頼関係の中で、具現化していく」

です。

内側の、心の奥の奥の声、というのは、ほんとうに、ほんとうに、やさしいです。

「え?いいんですか?」ってほどです。

わたしたちの、想像を、予想を、超えるところというのは、

ノージャッジで、無垢で(罪がない)、ほんとうに、幸せなもの、です。

その幸せが広がっていくのが創造だと思っています。その中で「人数が増える」ということもありますので、パートナーや仲間が現れたり、ということは、自然とあります。

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