「愛する人に愛されたい」という声と「でも人間は怖い」という声が、わたしのなかに、両方あった。
そして、また「対人恐怖症を克服すればうまくいく!」という外側からのお誘いに、乗ろうとした。
わたしはこれを、何度もやってきた。何度も同じことを繰り返している。
何度も同じことを繰り返してきたので、「必ずまた絶望し、死にたくても死ねず、家でじっとしていたら、元気が出てきて、また、恋をしたくなる」。
これを、ずっと、繰り返してきた!
たしかに、このプロセスのなかで、わたしは「経済的自立」「やりたいことを仕事にする」みたいなことは達成できたかもしれないけど、心は満たされていない。
稼げるようになった、物質的自由を手に入れたからといって「自信満々、みんながわたしのことを認めて愛してくれて、満足してます!」みたいなものとは、かけ離れたものでした。
この、満たされない心を、「わたしが愛する人に愛されること」によって、埋まる、と、わたしは考えているらしい。
では「わたしが愛する人」とは、なんだろう?
どんなふうに愛されたら満足できるのだろう?
わたしが相手に求めているものは、ほんとうに、与えられるのだろうか?
わたしが相手に求めるものは、持続的に安定して、与えられるのだろうか?
仮に、心の奥で求めていた人と出会って、相手の親族家族全員とうまくいっていける?
仮に、うまくいったとして、相手が病にかかる可能性は?
仮に、うまくいったとして、相手のほうが先に死ぬ可能性は?
縁とは?タイミングとは?
そんなふうにして、「仮に」と、「思考」を使って考えていくと、また、空虚感というか、絶望感というか、そんなような気持ちになっていった。
「思考」を使って考えても、答えなんか、でない。
「考えるな、感じろ」と言われても、なにも感じられなくなっていた。
わたしは、なにを求めていたのだろう?
恋愛を通して、家族を通して、人間関係を通して、お金やお金でできることを通して、なにを求めたのだろう?
その求めるものが「束の間の喜びや快楽」ではないことも、もう、わかりきっていた。
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そして、たどり着いたところが、わたしが”ほんとうに”求めるものは「外側」には一切ない、ということでした。
何度も何度も、エゴに乗っ取られ、何度も何度も同じことを繰り返し、もう、”ほんとうに”求めるものは「外側」には一切ない、内側にしかない、ということ以外に、なにもないのです。
”ほんとうに”というのは「わたしが心から求めている、永久的ななにか」のことです。
「求める先」が間違っていた。
「求める先」が間違っていたことに気づくと、そこには、「わたしが心から求めている、永久的ななにか」が、ずっと、あった、しかも、これから先もずっとある、ということが、”わかった”。自然とそうなった。
「電力供給」する先、いや、してくれている先が、ただ、違っていただけだった。
これから先も、もしかしたら、悲しいことや腹立たしいことは、あるかもしれない。
「このブログにも書いていましたが」という具体的な例を一つ挙げるとするならば、「社会問題」や「ニュース」をみると、すごく嫌な気持ちになることがあった。
そのときに、どうすればいいのか、というのが、今は、はっきりと、わかる。
「問題視しない」というのは、「問題を見てみぬふりをする」ということではない。
「光をみつづける」というのは、自分のなかのかすかな「違和感」を、無視することでもない。
エゴの声は、マーラの声は、むしろ、はっきり、みる。
「小さな小さな」「かすかな」というところが、むしろ、はっきり、みえるようになった。
体の痛みも、社会問題への怒りも、天災への無力感も。
はっきりと、みた上で「わたしがずっと外に求めていたけど、ずっとあったなにか」に、戻す。
「いつまでたっても、世界に、痛みや怒りや違和感を見続ける、肉体に閉じ込められて、時間に支配されて、小さくて無力で限定的なわたし」と、
わたし自身を、限定してしまうことを、しなくてよかったことを、すぐに、何度でも、思い出す。
そして、また、「わたしがずっと外に求めていたけど、ずっとあったなにか」に、戻す。
そうしよう、と思うだけで、自動的に戻る。
「そうしようと思うだけで、自動的に戻ることを知っている」というのを言い換えると、「信じる」とか「信頼感」ということなのかもしれない。わからない。
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・・・最近は、また、なにも、書くことがなくなってましたし、「ちゃんと書けてる感ゼロ」です。
なんとなく、今日は、なにかを書いてみたくなって、ブログを開きました。
内側が先、外側があと。
自分と誰か、自分となにか、あの人とこの人を、イコールでみるのを、やめない。
これが、ほんとうに、大事ですね。
あと、自分でなんとかしようとしないこと。
なにもしないのが、一番です(という境地への道、という感じでした、わたしの場合)
「あるニュース」、これにみる、嫌悪感、怒り、重くなる気持ち、絶望感。
だいぶ、変わってきました。軽くなってきた。