自己欺瞞というのは「自分で自分の心をあざむくこと。 自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化して自分の心をあざむくこと」のこと。
「自分が自分の声を聞く」「思考の書き出し」というなかには、この自己欺瞞へのアプローチが含まれている。
わたしたちは「神か?神以外か?」「たったひとつの愛か?分離か?」というところでいう、分離を選択状態では、自己欺瞞しかしていない、と言いたいほどなのです。
これを、わたしは、責めたり、問い詰めたりするような気持ちで、書いていません。
自分が、自分の内側と向き合っているとき、ほぼ、この自己欺瞞だらけで、本心・本音に耳を済ませながら、さまざまなエゴの言い分を解いていく作業、というのは、心地よいものでした。
これは「神」とか「愛」とか「真理」というところに向かうための、そして、ひとりで実践できる、一番の方法なのです。とくに「鏡もイマイチだし、祈りも続かない」みたいな場合は、これをするといいです。
自己欺瞞があるとどうなるかというと、「否定批判したくなる人が目の前に現れ続ける」とか「ほしくないものばかり与えられる」とか「生理的に無理」とか「なんかヤダ」とか「がんばってるのに変わらない」とか「なんかよくわかんないけど不快感(または恐怖感)」とか「やりたいことがわからない」とか「あれもいやだ、これもいやだ」とか、そういう状態になりやすいです。
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自分で自分の心をあざむくこと。
自分の本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して正当化して、自分で自分の心をあざむくこと。
自分の良心に反しているのを知りながら、それを自分に対して正当化して、自分で自分の心をあざむくこと。
このことを、まずは「そういうもんだ」「分離視点においてはそうなることはめずらしいことではない」「わたしだけがそうというわけではない」みたいな感じで、受け入れることが、
すごくすごく、大きな一歩。
「自己欺瞞している自分がいてもいい、と、受け入れる」ということは、大変容への切符を手に入れたようなもの、です。
誰かが、一日中あなたに見張りとしてつきまとって、自己欺瞞しているあなたを責める、などということは、ありえません。
「自己欺瞞している自分は悪い人間だ」というこの耳に聞こえない声のことを、わたしはマーラと言っていたのです。マーラというのは、集合レベルの思い込み、根拠のない思いつき、空想、です。
そうそう、マーラというのは、集合レベルなのですよ。
なので「お前だけが、悪い、ダメな、価値がない、許されない罪を犯した、誰からも愛されない、助けてはもらえない、できない、欠けている、ダメな存在なのだ」系の考え、耳に聞こえない声、感覚などは、
一切無視してよい、ということです。
集合レベルのマーラであり、これを消そうとか、なんとかしようとしたところで、マーラの栄養になるだけです。
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あまりにも、マーラの声がひどいとか、いろいろ引きずられる感じ、重い感じ、となりやすい場合は、もう、お祈りするしかない。
マーラではなく、神の方を向くしかない、のです。
あなたの貴重な一秒を「存在しないマーラとの喧嘩」ではなく
「神に想いをはせる時間」「神に身を委ねていいことを思い出し、感謝する時間」
にしたほうが、100000000倍、マシなのです。
お祈りは、幸せな出会いや、展開を、早めてくれます。
不吉な予感はすべてなくなり、何事もなかったように関係性が整い、
自分のなかの「苦悩」「攻撃性」なども「あれ?なんだったっけ?」みたいになり、
とんとん拍子に、スムーズな、流れに、身を委ねることで、行き当たりばったりでもシンクロで見事に展開していくような、
神の采配を受け取ることになるのです。
「タイミングがいいとき」というのは、まさに「神のほう」にいる、ということです。
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自分の心の奥が、魂が、求める現実を受け取るには、そして、波動を高く・軽くしていくには、
- 自分が自分の本音・本心を聞く
- 自己欺瞞がありそうならそれをただみつめていく
- さまざまなネガティブの根底にあるおそれ・恐怖をみていく
これがベースにあることが、だいじなのです。
波動を高く軽くするということは「ハートの奥からの想い」とか「魂の願い」みたいなところが叶いやすくなるのはもちろん、ありとあらゆることが勝手にうまくいく、ということです。
思うがまま状態、なのです。
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(追記)自己欺瞞の例
「良心に反しているのに正当化」といっても、ちょっとしたことだったりします。
たとえば。
上司から「これとこれをやっておいてね」と大したことない雑用を頼まれる。
大したことない雑用なので、さっさと済ませれば良いところを、後回しにしてしまう。
「あー、あれを早くやっておかなきゃ」と思うんだけど、後回しにして、どんどん気が重くなっていく。ここで、自分を責めるような”声”(=攻撃性)も働いていたりする。
そのうちに「なんでそもそも上司はこんなことを自分に頼んでくるんだ?このくらい自分でやれよ!人をこき使いやがって!」と、その責める矛先(=攻撃性)が、上司に向く。
でも、その奥には「ちょっとした雑用だったし、さっさと済ませればよい」という良心が、自分のなかにあったりする。
これが、自己欺瞞の正体。そんな自分を、反省修正というよりか、ただはっきりと「目撃」していく感じが、内観。
こういったようなことは、「自分だけ」とかじゃなくて、あるあるだったり、するのです。
なので、自己欺瞞が強い場合(無自覚的にずっとされてきた場合)は、他者否定・他者批判が働きやすいということもありますし、
長い間「やる気がない」「気が重い」という場合もあります。
「酸っぱい葡萄」も自己欺瞞ですね。
「酸っぱい葡萄」とは、あるときキツネさんが、美味しそうな葡萄を見つけて、「あの葡萄食べたいな」と思ったけど、手が届かなくて葡萄を取ることができなかった。
それで、狙っていた葡萄を「あの葡萄はどうせ酸っぱくて美味しくないに決まっている」と自己正当化したというお話。
「あの葡萄を食べたかったのに、手が届かなかった」というのが本心だけど、それを認めることができなかった、というのが自己欺瞞、という感じです。