神に委ねる。宇宙に委ねる。
この「委ねる」という感覚。
そういえば、わたしも昔、この「委ねる」という感覚が薄かった気がする。でも、皆無ではなかった気もする。
とてもとても、苦しいとき、焦るとき、こわいとき。「委ねるなんて、無理!どうやってやるの!」と思っていたような、気もする。
今の正直な感覚を書くとするならば「よく覚えていない」となるけど、たぶんそうだったと思う。
今では、この「委ねる」という感覚が、「通常モード」になった。
自分の意志などなくて、全て神の意志。神の采配。そのことへの深い深い安心感と感謝。
これが、今、ベースにある。
そうなったのは、
内観(自愛)や「鏡でみる」ことで自分をみる以前から「無条件の愛、全肯定、完璧でしかない神」ということが、自分の心のどこかにあったからかもしれない。
でも、これは、わたしだけでなく、みんなの心のなかにある気がしている。どんなに、今、「そんな感覚ない」と思っていても、心の奥のほうに、ある気がする。もし、それがなかったら、とっくの昔に、いろいろ諦めているかもしれないし、そもそもこんなブログなんて読んでいないんじゃないか、と、ふと、思った。
「裁いてくる、条件をつけてくる」のは、いつだって、分離を元にした発想(と、それを言ってきそうな誰かや自分)であって、それに怯えている。そして、いつの間にか、委ねるという感覚が、鈍ってくる。
でも、「委ねる」という感覚が、ある瞬間が、あるはず、です。今、どんなにないと思っていたとしても、それは、そういう時期なだけかもしれない。
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わたしにとっては、お祈りをするというのは、「委ねていていい、それが一番いい」ということを、思い出すことでもありました。
ここでいうお祈り、というのは、ただ神を感じること。すでに与えられているもの、受け取ったことに、愛と感謝をすること。
すべての采配、完璧な愛の采配、奇跡というのは、
人間でも社会でも国でもなく、根本的な話をするならば、神によるものです。
運命も、神によるものです。神の意志しか、存在しません。
この「神」というのは「すべてはたったひとつの愛」というところです。
分離視点でみると、AさんBさんCさん・・・は別々に見えて、その差が見える。
そう見えるのがおかしいことではなくて、肉体・肉眼を持っているというのは、ある意味、そういうことなのだけど、
この「別々に見える、物理次元」において、「すべてはたったひとつの愛」という視点で生きるということは、すでに奇跡であり、こういうものを奇跡と呼び、それはつまり、完璧な神の愛のもとで生きているということなので、「ただゆだねていればいい」という絶対的な安心感と感謝、というふうに、自然となる。
もちろん、そうしたからといって、体調がすぐれないときや、なにもしたくないときもあるだろうけれど、「お休みをいただいたことに感謝」みたいな感じで、安心した感覚がいつも内側にあることを、自分が自分で、感じられる。
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「神」というものから離れているとき、人は、不満、猜疑心、批判、心配などが強くなる傾向にあるようです。ほかの言い方をすれば「いやなこと・人、ダメなこと・人が多い」みたいな。
「不満、猜疑心、批判、心配」が強いのが悪いとかじゃなくて、そんな自分を見つけられたら、
- 自分が自分の素直な本音をきくときだ、と思い出す。
- 奥にあるおそれをみるときだ、と思い出す。
「恐れている」「自分は、恐怖を持っている」という自分に、出会う。
ただ見るだけでいい、というか、ただ見るだけ”が”いい。
どうしよう、どうしたらいいの?とかじゃなくて、ただ、見るだけ、で、いい。
これが「自分が自分を愛する」という書き方をしてきた内容です。
ここまでが、大前提。
これをするのが「苦でもなんでもない」「いつまでやればいいの?がなくなる」という頃、すでに、現実面でも、かなり変わっている、とか、すばらしい展開になっているとか、すると思います。内側からの充足、心身ともに満たされる感じ。
ここでお祈りもしていたら、委ねる感じも、掴めていると思います。
これをすっ飛ばすと、いろいろ、ややこしいことになる。
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「委ねる」感覚があると、無駄なことを考えなくなります。
無駄なこと、というのは、考えても仕方がないような、考えたところでただ自分が疲れるようなネガティブなこととか。
ネガティブな見方を自分にも相手にもしてしまうし、ネガティブな見方をしていると関係性まで壊してしまうことがある。
これは、相手を、何かを、ありのままに見ることができない、聞くことができない、ということです。だから、受け取っているようでいても、いろいろ受け取っていない。「受け取っていない」というのは、主に、目に見えないほうのことで、この目に見えないものこそが、現実を決定づけている。
だから、ネガティブなときは、もう、自分が自分の素直な本音を聞こう、認めよう、と決めて、お祈りするしかない、って感じなのです。
お祈りっていっても、「どこか、自分とは離れたところに存在する、特別な存在としての神さまに祈る」とかではなくて、
わたしの心の奥に存在して、みんなの、すべての、心の奥に存在する、神さまです。
つらいときは、「そんなのわたしのなかにあるわけない」と思えることもあるかもしれませんが、だからこそ、祈るのです。
もちろん、ここに書いている話は、「聖人君子になるための方法」などではなく、
内側から満たされて、身も心も(現実面でも)愛と豊かさであ揺れていて、
想いを叶えていっている、神の采配を感じていて、すべてうまくいっている、
自由、平和、インスピレーション
などなど、↑これで、人生を生きたい、という人だけが、取り入れれば良い話です。
そのための、話です。
なので「そうなりたい」と感じる場合は、「もう、そういう時期がきている」ということなのです。
そうやって、自由に魂を輝かせながら、完璧な神の采配に委ねながら、生きていく時期がきている、ということです。
これは、実感なくてOKなので、「そうらしいぞ、そういうこともあるらしいぞ」と思っておくほうが、スムーズなようです。
そうなんですよ、実感なんか、なくてもいいのですよ。信じようとしなくても、わからなくてもいい、むしろ、わからないならわからないままにしておくほうがいい。わかろうとしたところで、混乱したり、間違った理解を積み重ねる、という方向に向かうことは、よくあることです。
たったひとつの愛、というところで、すべての奇跡を創造している創造主である神さまにゆだねる、その完璧性としての神さまにゆだねる、という感じ。
すべてはたったひとつの愛で、みんなを平和で、幸せで、豊かにする、というのが、神によるものなので。わたしたちは「なにがどうやって?」とかわからなくていいのです。
「到底うまくいくとは思えない」「どう考えても無理」でもいいのです。人間的には、そう見えることでも、神にとっては「愛の計画」のほんの一部、かもしれないのです。
ここで、不満を言ったり、疑ったりするのが悪い、ということではなくて「とびきり素晴らしい神の采配によって与えられる幸せな愛を受け取ることが、遅延する」みたいな感じなのです。
「ただ、神の采配に委ねる」これが一番、早いし、スムーズなのです。神の愛の計画を、邪魔しない感じが「ゆだねる」です。