そもそも実践とは?

今から書くことは「これをすべてできてないと、実践できてるとは言えません」とか、そういう話じゃなくて(笑)

意識しておくだけでもいいかも、なんとなく書こうと思ったので、書いてみます。

 

 

実践というのは、もちろん、自分の心と向き合う・内観する時間を作る、とか、

ほんの一瞬だけでも、本気で祈りを捧げるための時間を作る、とか、

瞑想する、とか、

こういったことを、ご自分のペースで、少しずつコツコツ実践していくこと、続けていくことも、実践ですが・・・

 

 

たとえば、日常生活の中で、自分の心の中がすべてである、ということを思い出していること。

たとえば、祈りや瞑想のときの「心の奥から感じられる、あたたかい、安心安全な、平和な感じ」「心の静けさ」のままで、

会社に行くとか、友達と会うとか、食卓で家族と食事をするとか、

「あの心の感じ」を保ったまま、日常生活を送ること。

エゴにずれたらすぐに祈ること。

これも実践です。

 

 

たとえば。

「嫌いな人が目の前いるとき」に、そのままいつも通り「なんてこった」と反応せずに、

「神様 この方を信頼させてください」

「この人の本当の輝きを受け取らせてください」

「”意地悪な人”というのはわたしだけの見方です。本来の姿を見せてください」

と心の中で祈りつづけるのも実践です。

 

 

または。

たとえば。

内観する中で、自分の心の中にあったものを、相手に映しみていたことに気づいたとしましょう。

ここで、ぱぁ〜!っと、明らかな鮮やかな解放が起きて、奇跡って感じになる場合もあるかもしれませんが、

そうならない場合は、その自分の心の中にあったものを、手放して愛に戻す祈りをします。

この時点で「手放して、愛に入れ替えられた」ということなので、

次の日、その人に会うときに、心を開いた状態で会います。(内なる神を信じてる感じ)

 

 

そして、たとえば親子喧嘩、夫婦喧嘩、嫁姑喧嘩、などで、

相手にひどいことを言ってしまった、行ってしまった、ということがあるなら、

普通に、自分から謝ります。

相手の方がいい悪い/正しい間違いとかじゃなくて、内観して手放すということは、

これは自分が作ってたことでした(自分が自分の幻想ドラマをあなたに被せてました)、と認めることだからです。

こういうことも大事なのですが、「エゴの戦闘マインド」との同一化によって、そして、どうしても謝るのが苦手、という方も中にはいらっしゃると思うので、

そのような場合は勇気を出すと、すごくいいかもです。

こういうことも、実践です。

 

 

なので、もしかしたら、なのですが、

なかなか時間がかかってる場合、というのは、

「手放して、愛に入れ替えられた」ということへの信頼(神への信頼)がなくて、疑いを持っていたり、

「自分の考え、信念を手放したくない(自分が正しいと言いたい)」という状態だったり、

することもあるかもしれません。

もし、このような場合は、

「神(内なる神、大いなる存在、法則性)への疑いがあること」だったり、「自分の考え、信念を手放したくない(自分が正しいと言いたい)」

このことについて、ただ気づけて、認めるだけでも、ものすごく大事なこと、大きなことなのです。

疑っていようが、「神よりエゴの方が正しい」と思い込んでいようが、神からあなたへの無条件の愛には変わりがありません。

 

 

「手放して、愛に入れ替えられた」ということへの信頼(神への信頼)がなくて、疑いを持っていたり、

言い方を変えると「自分の考え、信念を手放したくない(自分が正しいと言いたい)」という状態だったり、

↑この辺りは、集合的に持ってる根深いものでもあると思うので、

丁寧に、手放していくことで、信頼が深まっていきます。

この信頼が深まってる状態、というのは現実創造・具現化にそのまま反映されていますし、

「神と自分の関係性=誰かや何かと自分の関係性」です。※なので「神と自分の関係性=パートナーと自分の関係性」なのです。

 

 

内観、実践を通して、「自然と」奇跡、素敵な変化(びっくりな変化から優しい変化まで様々)を受け取る方も多いのですが、

という方もとても多いのですが・・・

 

 

なんとなく、この記事も書こうと思ったので、書いてみました。

 

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