からだ、肉体、人間としての「私」や「誰か」は完璧な存在ではありません。
からだ、肉体、人間であるとするのであれば、誰もが欠けたところ、不完全なところを持っている、ということになります。擦り傷ができることもあるし、風邪を引くことだってあるのです。
だからこそ、支え合って、助け合っている、ある意味、依存し合っている、という言い方もできます。
完璧な存在である、というのはスピリットとしてのわたしたちです。
自分や誰かのスピリットは、完全無欠、完璧さそのものであり、豊かさそのものであり、愛そのものであり、本当の自由であり、偉大なる光であり、叡智そのものであり、インスピレーションです。
そして、これが「本来の姿」です。
肉眼では、このことは見ることができませんが、
心でみるとき、感じていくとき、誰もがそれを見ることになります。
一番大切なものは「目(肉眼)」では見えませんが、確かにそれを経験することになります。
浄化、そして、奇跡を受け取っていく中で、誰もがこのことを経験していますが、
「目に見えないものを見る」ということに対する先入観やレッテル、「それはこういうものだろう」という決めつけ、あるいはおそれ・・・
過去の情報なども含めて、こういったものを持っているとき、
「そんなことできない」「できるわけない」「難しい」という場合がありますし、
「自分は正しい」という思いや、特別意識などを持っている場合は、
「なぜかこのことだけ受け取れない」という場合もあるかもしれませんが、
それでも、誰もが、経験しているものです。