【鏡】禁止しているものを相手に見る

法則に照らしながら内観していくこと=内なる神とともに内観すること

ということもできます。

 

 

たとえば「どうしても嫌い、苦手だと感じる人」「どうしても許せないと感じる人」がいたとき。

このようなときは、特に、

「わたしの鏡だなんて思えない」

ということもあると思います。

 

 

たとえば、「礼儀マナーをキチッとしてるタイプの方」が、全然マナーを守らない人をみて怒り、イライラなどの動揺を感じるとします。

「むしろ、わたしはその逆ですけど」「すっごいマナーは大事にしてますけど」・・・というようなときです。

 

 

ここで、もう一度、思い出したいのは、

問題と、その解決(=奇跡、解放、癒し)、というのは、どちらも内側にある、ということ。

これは「相手を大目に見れるようになる方法」などではなくて(笑)

動揺を感じるとき・反応するとき、というのは、

心の中にある「(奇跡と入れ替わろうとしている)問題」「浄化されて癒されて光に変わりたいという思い」が浮上してきてくれているとき、

みたいな感じです。

 

 

そして、”問題”も”解決(奇跡)”も心の中、自分の中にあるので、たとえばですが、

その時点で自分が「ちょっとしたこと、どうでもいいと思うこと」と「これは是非ともなんとかなってほしいと思ってること」は、繋がってるというか、同じなのです。(眼鏡をかけているのは自分なので)

内観・浄化が深まっていくと、このことがよく実感できるようになってくると思います。

 

 

話を戻して、

たとえば、「礼儀マナーをキチッとしてるタイプの方」が、全然マナーを守らない人をみて怒り、イライラなどの動揺を感じるとします。

「むしろ、わたしはその逆ですけど」「すっごいマナーは大事にしてますけど」・・・というようなとき。

このようなときは「マナーを守らなければならない」と、

「マナーを守らないこと(そしてマナーを守らない自分)」についてジャッジメント(禁止)していないかどうか?ということです。

 

 

念のため書きますが、これは、もちろん「マナーを守らなくていい」とか「悪い」とか、そういう話ではなくて、

まずはじめに、心の中で、自分が自分にジャッジメント(禁止)していないかどうか?ということです。

たとえば。母が子に、

「マナーを守りましょうね(愛)」というのと「マナーを守りましょうね(睨)(圧)(怒)(ジャッジメント)」の違いは何かというと、

おそれや罪悪感をベースとした感情が混じってないかどうか?とも言えます。

なので、形(五感)となってあらわれる言葉が重要なのでは、ないのですね〜。

これが、「ものごとは心でしか見ることができない。 大切なことは目には見えない。by サン・テグジュペリ」のお話です。

※「マナー」を例えとしてあげていますが、「マナーを守るか守らないか問題」の話をしているわけでは決してないですよ。

 

 

それで。

「マナーを守らないことを禁止(ジャッジメント)」している状態というのは、

極端な書き方をすると、

「マナーを守る自分は善」「マナーを守らない自分は悪」

と、「二つの自分」を作った上で、「マナーを守らないのはダメなことだから、マナーを守ろう」としている感じなのです。これでは、心が疲れます。

「マナーを守らない悪な自分」をわざわざ作って、それを避けようとしている感じです。

 

 

この話を書きながら思い浮かんだことなのですが、

あるひとが、心の奥で、

「木星人のように振る舞う自分はダメ」「木星人な自分は悪だから、隠して、地球人のように振る舞わなくてはならない」

とやってるのと、同じ構造ですよ、なので、具体的な形(マナーか?木星人か?)は違っても、同じことやってるのです。笑

「こんな自分はダメだ」というのを心の奥に隠し持ってるからこそ、外側に「あの人は木星人ぽく振舞ってる(嫌悪感、怒り、許せない気持ち、裁きたい気持ち)」という知覚ができるわけです。

でも、こんなことそもそも考えたことない人は、「あの人は木星人ぽい(嫌悪感、怒り、許せない気持ち、裁きたい気持ち)」などとは思いつきもしないはずなのです。

 

 

構造は同じです。笑。

なので、「どうしても、あの人を鏡で見る(自分の投影だと認める)」ことができない、

というときというのは、

「木星人としてのセルフイメージ(偽の自己像)を隠しもち、

さらにその偽のセルフイメージを実在のものと信じ込んだ上で、禁止している、裁いている、憎んでいる、嫌っている」

というような感じなのです。笑

 

 

さらにその偽のセルフイメージを実在のものと信じ込んだ上で

↑これは結構重要なポイントです。

どう考えても「木星人としての自分」という考えは自分が作りました、それを信じ込んだのも自分、ということです。

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