鏡について

この世は鏡、というのは。

たとえば、誰かを見て「なんで〇〇しないんだ。〇〇すべきだ。もっとちゃんとすべきだ」と言いたいとき。

こんなふうに「なんで〇〇なの」とジャッジ、非難、批判したくなるとき。

自分が自分を非難、批判、ジャッジしている、ということです。

「???」という場合は、一旦「そうらしい」と受け入れるだけでもOKです。

「たしかにそうだ」と一致できてるときは。

 

 

「自分も頑張って、ちゃんとすべきだ」と、頭で結論づければいい、いうわけではないです。

そうとは限らないというか。「表面だけ見て、自分で結論づけようとしない」ことは大切です。

 

自分が自分を非難、批判、ジャッジしていたから、自分は相手に対してもそうしたくなった、ということを、まずは一旦、認めます。

こんなふうに自分をジャッジするとき、正しいか間違いかで自分を見張って、責めたり、批判してる、ということは、

「ジャッジされてる自分、批判されてる自分」も同時に作り出している、ということです。

この「ジャッジ、批判されてる自分」という、ダメな自分、悪い自分、劣った自分・・・それを、自分が自分で作ってる、ということです。

ほんとうは、神の子なんだけれども、「自分はダメな存在、まだまだ足りない存在、欠けた存在だ」と、決めつけること、

「自分はそうなんだ、わかってる」というのを、傲慢、といいます。

なにもしなくても、ただわたしという存在でいること、ありのままで尊い、”できてもできなくても”尊い、ということ。

それを受け入れていく、ということが、自分を認めるということ、自分の中にある神聖さを信じる、ということでもあります。

 

 

これが、難しく感じるとき。

あなた=わたし、外側=内側

なので・・・

一番の方法が、相手の中に神聖さをみること。

相手の中に完璧な輝きをみること。

相手の中の愛を受け取ること。

相手を信じること。

神を信じること。

みたい、受け取りたい、信頼させてください、と祈ると、それを経験できます。

 

 

これを繰り返していくこと、その経験が積み重なっていくことが、大切です。

 

 

「自分を愛さなきゃ、受け入れなきゃ」ともがくよりも、

目の前の人に、こんなふうにして、心の中で頼ること。

 

 

あなた=わたし

ということを、ただただ、受け取っていくことは、奇跡でもあって、癒しでもあります。

そう心に決めて過ごして、心の中で、癒しや気づきを受け取ると、不思議なほど、「その証となる体験」が現れるものです。

 

 

「先に証拠見せてみなさいよ」とか「〇〇になったら幸せになる」という、外側基準、駆け引き、取引、条件付けでは、誰かや何かとの、本当に心の奥から幸せで満たされている平和な関係性は受け取れません。

外側基準、駆け引き、取引、条件付けを持ったままでは、内なる神、本来の自分の感覚とも、関係性を築けません。

 

 

こちらから、心を全方向に開いて、信頼していく、尊敬していくことは、そのまま、それを受け取ることになります。

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