承認欲求で、マズローの欲求5段階説が思い浮かびました。
あのマズローのピラミッドでは、上から2番目なんですね。ちなみに1番上が自己実現欲求、ピラミッドを超えたところでは自己超越。
なんだか、そんなことを、ふと思い出しました。
セッションなどをしてると「承認欲求がなかなか手放せなくて(苦)」という感じでお申し込みくださる方もいらっしゃるのですが、
もうですね「わたしには承認欲求がある」と気づけてるだけで、わたしは結構すごいと思います。
問題視する必要はないです。
気づいてない場合「そんな自分に気づく」のが、まず大事です。
ここを隠して、何年もかけてらっしゃる方も多いのではないかと思います。
「頑張ったね」「よくやったね」と言ってもらえると嬉しい、という方は多いと思いますが、承認欲求にまだ気づいてない場合、そんな自分もただ認めていくことって、大きいと思います。
承認欲求があるのがいいとか悪いとかではないのです。
しかし「認めてほしい、評価してほしい」「自分のことを価値がある存在だと言ってほしい」というこの承認欲求は、
他人軸、条件付け(自分への条件付けの愛、ということは、他者にも条件付けの愛をすることになる)
もっというと、事実無根の幻想、です。
「(自分のことを価値ある存在だと思えないから、そう確信できないから)認めてほしい、評価してほしい、価値がある存在だと見てほしい」のです。
この(自分のことを価値ある存在だと思えない、自分には価値がない)←この、隠し持ってる自分への呪いの言葉を見ることが重要です。これが幻想です。
これは、何度も書いて申し訳ないほどなのですが、「ほしい、もっとほしい」というのは「ない、足りない」と言ってるのと同じことです。
じゃあどうすればいいのか?
というと、承認欲求は、もう超簡単シンプルで、
「自分が相手を認めること、評価すること、相手の輝きを見ること」
です。それを、どんどん、見ていくこと、です。
一番最強なのは、これを、無作為に、自分でジャッジして「この人は認めるけど、この人は無理」などとジャッジせずに、
これを、いろんな人に対して、ありのままの素晴らしさ、輝きを見ていくこと、認めていくこと、です。
これを、ただ、やること、です。
なんでもそうですが「〜してほしい」という、誰かへの欲求(不足感)がある場合は、
自分が先に、それを与える、差し出す、が鉄則です。
与える、差し出す、ということは、自分にそれがある、と、認めることになります。
「わたしはもう、十分なのですよ、満ち満ちてるのですよ」と、パワフルに宣言してることになるので、そう、という感じです。
これも、「形、形態」じゃなくて、「内面」の話です。
そして、木を見て森を見ずにならないこと。特に、恋愛・人間関係系だと、「この人!!」となりやすいと思いますが、「森を見ること」が重要です。
ちなみに。
これを書いていて・・・
「話を聞いてほしい」と思ってるけど、わたしはすでに話を聞いてますけど?
や
「察してほしい」と思ってるけど、わたしはすでに察してますけど?
という「声」が聞こえたので、書きますが。
このような場合を「不一致」といいます。自分と一致できてない状態です。
「話を聞いてもらえない」と思うとき、自分が話聞いてません。「聴いてません」と書いたほうがいいかもしれません。
察してほしいも同じです。察してるつもりだとは思いますが、ほんとうに大事なところで「察する」ということができてません。
これは、法則なので、そういうものだ、という感じです。
その自分をジャッジするとかじゃなくて、まずは、そうなんだ、ということを受け入れること。
これは、わたしも以前経験があるのですが、こういうときって、
(1)まずは、そうなんだと受け入れる
(2)その自分をわかりたい、気づきたい
と思う(祈る)と、気づきます(笑)
この段階では、これに気づくだけでも、大きくエネルギーが動きます(その「証拠」が現れます)