昔その1。
わたしは「母からあなたは間違っていてお母さんが正しい、みたいな感じのことを言われて、それにすごく動揺するのだけれど、このことが投影だとわからない」というような時期を過ごしていたことがありました。
わたしは「誰かから間違っていると言われることはあるけど、人を間違っているということなんて、ないもん。自分で自分のこと、正しいとか思ってないもん」と、ロックがかかったようになってしまって、心の中を見ることができない、という時期があったのです。
しかしある日「母からあなたは間違っていて、お母さんが正しいと言われることが嫌だ」と、動揺しているということ自体が「お母さんが間違っていて、わたしが正しい」と言いたいことと、同じことだ、と、気づいたのでした。
昔その2。
昔その1からしばらくした頃。
感情が強く出てきて、どうしようもない、というような時期を過ごしていたことがありました。
この頃、一番よく出てきていた思考は「わたしが正しい、絶対に」というものでした。
これが強めの感情とセットで出てきて、「ループにハマってしまう・・」みたいになってたことがありました。
なんというか、もう「世界の中心でわたしが絶対に一番正しいと叫びたい・・!」みたいな。(恥)
この頃、攻撃的な感情を神様に捧げる・・ということを何度も何度もしていました。
攻撃的な感情(言葉にならない、攻撃エネルギーみたいな感じ)を、神様に、どうか癒してください、どうか助けてください・・という心で、差し出す、ただただ差し出す、何度も何度も差し出す・・ということを続けていると、
神様は、攻撃的なエネルギーさえも、無条件の愛のエネルギーとして与えてくださる・・と受け取ることができる瞬間が、やってくるものです。
それで最近、また「正しさ」について考えていました。
たくさんの方のお話を聞いていて「正しくありたい」という声はとてもよく出てくるのですが、
皆さんの「正しくありたい」という声を聞き続けているうちに「神の子でありたい」「神の光を輝かせたい」に聞こえるようになってきちゃったのです。
正しくありたい。神の子でありたい。そして神の光を輝かせたい。
だとすると、なんと神聖な叫びなのでしょう・・と、なんだか、感動しちゃった。
それでじゃあ「正しくありたい。神の子でありたい。そして神の光を輝かせたい。表現したい」というとき、自分が自分のためにできることは、なんでしょう、と問うてみると、
「素直に、正直に、自分が自分の思いを認め続けていくこと」
と、真っ先に返ってきます。
「素直に、正直に、自分が自分の思いを認め続けていくこと」
自分が、自分に、です。
人に対して素直になりましょう、とか、人に嘘をつかずに正直にしなさい、とか、そういうのは、一旦脇に置いておいて、
自分が自分の、素直な、正直な、思いを、認めつづけていくこと。
悲しいなら、悲しい。
怒っているなら、怒っている。
嫌な感じがするなら、嫌な感じがする。
いい感じがするなら、いい感じがする。
何もしたくなくて一晩中ゲームしたいと思うなら、何もしたくなくて一晩中ゲームしたいと思う。
エゴでも、なんでも、とにかく、ただ、認めていく。
できれば、見たくないものほど、見て、認めていく。
コツは、ここで、自分の声、心、感覚に、繊細に、繊細に、なっていくこと。
自分の声、心、感覚に、丁寧に、繊細に・・。
すると、優しく、「玉ねぎの皮が剥かれていく・・」みたいに、自然と、導かれていく。
これは、とても、深い、安心と癒しを、与えてくれるものです。
これは、HSPさんや繊細さんであるなら、得意だと思うんだけど。時と場合によってはすごく苦痛に感じることや、内観が難しく感じることは、もちろんあると思うけど。
なので、内観というのは、とても繊細なものでもありますし、
逆に、内観していると、どんどん繊細になってくるものです。
この「繊細さ」というのは「か弱いイメージの繊細さ」ではなく・・うーん、例えるなら、ワインソムリエ的な繊細さでしょうか。わからないけど。
今の、現時点での、自分の声、心、感覚、本音、インナーチャイルド、エゴの思い、とにかくなんでもを、そのままを、素直に、正直に、ただ、認めていく。
これは・・すごく「感じる」という時間でもあります。
さて、ここで、よくある誘惑は「この自分の思いを、判断、決めつけ、ジャッジメント、分析、唯一の答え、導きのように扱いたくなる誘惑」です。
ですので、このような誘惑に自分がついていかないためにも、
神様に「自分の声、心、感覚、エゴを、そのままを、素直に、正直に、打ち明けていく」という感じは、すごく、いい感じです。
今の、現時点での、自分の声、心、感覚、インナーチャイルド、エゴの思い、とにかくなんでもを、
そのままを、素直に、正直に、判断せずに、ただ、認めていく。
これは、とても、安心が深まっていく時間です。
この安心の土台が、もともと放たれている内なる神聖性による光、真の正しさが、すでに溢れ出ていた、溢れ出ている・・ということを、体験を通して受け取れるように、導いてくれる、そんな感じがしました。