昔、ある男性芸能人が、インタビュー記事の中で、
「自分の息子に対して『パパはお前のこと信じているから』と言い続けてきたけれど、あるとき、自分がそのようにいうのは、息子のことを信じていないからだと気づいた」
というようなことを語っていたことを、今日、ふと、思い出しました。
それは、とても、優しい、解き放たれるような、あたたかい、そんな印象を受ける記事でした。
相手のことを、誰かのことを、何かのことを、大いなる存在のことを、ほんとうに信頼する、信頼し合うって、どういうことでしょう・・・
盲信ではなく、信頼って、どういうことでしょう。
どんなことでもそうですが、自分が、自我の信念を持っていたことに気づくからこそ、それは手放すこともできるのです。
わたしたちは、自我の信念と同一化しているとき「なんでなんだ、どうしてなんだ」と、何かを恐れたり、責めたくなったりすることがあります。
「わたしは、これまで、相手のことを信じていると言いながら、信じていなかった」と気づけたからこそ、真にまっさらな心で相手を見たい、相手のことをほんとうの意味で信頼できるようになりたい、と思えるのかもしれません。
いつだって「迷子になる」ことがあるので、「〇〇さんのことを、信頼させてください」と、何度も何度も祈ることが、できる、のかもしれません。
そして、祈りのすごいところは、ほんとうに自分が思いもしなかったものを経験させてくれる、ということです。
「自分の力で、自分の判断で」やろうとすると、「特に変わり映えのない毎日」だったり「嫌な予感は当たる」だったりするのですが、
「自分が」をやめて、大いなる存在に捧げると、つまり、祈りを通ると、奇跡、癒しとして、受け取るのです。
「拒絶、疑い」というような、自分の心の揺れがするときに、「〇〇さんのことを、信頼させてください」と祈りを捧げて、自分の見方は取り下げて、神聖な存在による光の広がりを見させていただく。
この経験を重ねていくうちに、ずっと与えられ続けていたことへの信頼感が深まっていきます。
たとえば、心の奥で「わたしは愛されるにふさわしくない」と思い込んでいるとしましょう。
「わたしは愛されるにふさわしくない」と思って誰かを見ることは、同時に「あなたはわたしを愛することができない」と言っていることと、同じ、ということも、あるかもしれません。
そのような思い込みを持ったまま、過ごしていると、その思い込みは、「やっぱりわたしは愛されていないんだわ」という証拠を見つけ出そうとしています。
そして、あるとき、その思い込みは、「ほら、こんなことがあった。やっぱり、わたしは愛されるにふさわしくないのよ」という証拠を確保するのです。
最初の段階では「わたしは愛されるにふさわしくない」という思い込みを手放したいか?手放したくないか?です。ここに力を与えることを続けたいか、続けたくないか。
どちらでも「いい、悪い」ということはないので、自分に正直になる必要があります。
「手放したくない」という場合は、手放さないことによるメリットがあります。心の中にいる過去の誰かを責め続けていたい、ということも、よくあることです。
「手放したい」と思うのであれば、「手放します」と宣言して、大いなる存在に捧げます。これを、愛に戻してください、このことを通して真に癒されているという経験を受け取らせてください、と。
自分から相手への「矢印」と相手から自分への「矢印」がイコールになる、感じ。受け取る通りに、与えている、ということ。
こんなふうに「自分と誰かとの信頼関係」というのは、「自分と自分(本来の自分)との信頼関係」が映し出されるものです。
自分との信頼関係とは?
逆に、自分を疑う(疑念、疑心、不信)とは、どういうことか?
それは・・・
自分は、弱くもろく傷つくことが可能な存在なんかじゃなくて、
自分の中には、愛する力、認める力、ゆるす力、受け入れる力、受け取る力、たったひとつの愛であることを思い出す力・・・がある、ということを、否定している、ということ、とも言えるのかもしれません。
自分の中には、大いなる存在による素晴らしい輝きがある、善きところがある、ということを、否定している、ということ、とも言えるのかもしれません。
「この問題と思える出来事の中に、肯定的な意味を受け取れることができる」ということを、否定している、ということも、言えるのかもしれません。
自分が考えていることよりも、おおきくて、すばらしいもの、やさしいもの・・・それを、受け入れる力を、否定している、ということも、言えるのかもしれません。
一つひとつ、自分を疑って、否定することを、気づくたびに、もうやめます、としていく中で、
自分と自分(本来の自己)の信頼関係、自分と誰かの信頼関係、自分と世界の信頼関係が、深くなっていくことに対して、心を開けるかもしれません。