(1)過去や未来は幻想のお話
たとえば、タイムマシンができたとして、「過去」にいくことが、できるとします。
それで、仮に、タイムマシンに乗って、令和時代である今から、江戸時代に行ってみるとしましょう。
そこで、江戸時代に到着し、「江戸時代を満喫しているわたし」は、「今」となります。
「過去にあのような事実があった」「あのときあんなこと言った言われた」というようなことは確かにあります。
「品物」や「写真」なども、わたしたちは、知覚することはできます。
「過去にあのような事実があった」「あのときあんなこと言った言われた」と、自分の中で考えているとき、それは内的な話(思考、感情、思い込みなど)であって、その内的なことは、自分にとって、喜びをもたらしてくれているのか、恐れをもたらしているのか、安心と不安を同時に膨らませようとしているのか、ということになります。
そして、ここでは「事実確認」「証拠が事実かどうかの検証」の話をしたいわけではありません。
今にしか創造性はありません。いつだって、今、創造性があり、体験をしています。
森羅万象を創造するほどの内なる宇宙は、過去や未来には、いません。今にしか、ないのです。
過去や未来を用いながら、「今」を裁いたり、脅かしたり、せかしたり、することは、自分にとってほんとうにメリットがあることなのかどうか?
「脳内タイムトラベル」をしているときは、このことを問いかけてみたいです。
(2)過去生
これも、究極はないです。
わたしたちは、この世界の中で生きているし、時間の中で生活しています。
わたしも、内観、鏡(自己呪縛からの解放)をつづけていたあるとき、過去生がわかったことがあります。たまたま答え合わせするような出来事が続いたこともあります。
「真の自己への旅」の中で、そのようなことが、必要な場合は、そういうこともあるのかもしれない、と思いました。
そして、この体験でわかったことのひとつは、過去も過去生もわたしにとっては同じものだということ、今だけがわたしの大切なもの、愛の記憶にしか意味はないということと、
過去の有名人の魂の生まれ変わりの人はたくさんいるということ(自分だけがこの人の生まれ変わりだという場合は、そもそもこの自分とはなんなのだろう?という話になります)
一番大切なのは、過去生も輪廻転生も魂レベルも、その人にとって癒しとなるかどうかだけが意味を持つということです。
(3)カルマ
カルマ。業。因果。
これは、ブーメランみたいなものです。
業が深い、というのは、ブーメラン、たくさん投げたよ、みたいな感じです。
でも、わたしたちは、自分がブーメランを投げたことを、悪いこと、恥ずかしいことだと思い込んでしまって、心の奥で認めることができず、
今すべてのブーメランが無であることを感覚し、自由な選択ができることも信じられなくなり、
「自分はブーメランの奴隷」だと思えて仕方なくなることがあるのです。
「わたしは、ブーメランに、束縛されている」と、
「ほら、あの人もあの人も、そんなわたしを悪いと思ってるに違いない、わたしのことを束縛してこようとする」と。
あまりにも、ブーメランを投げて、同じようなことを繰り返してしまっているとき。
努力しているはずなのに、繰り返してしまっている、というようなとき。
でもきっとなにか、ほかに、いい方法があるのではないか、と思うとき。
もう、ブーメランは本気で飽きました、もうたくさんです、というような気持ちのとき。
ブーメランを投げる以外の選択肢があることを、自分が選ぼうとしているときなのかもしれない
ブーメランを凝視するのをやめて、空に心を大きく開くときなのかもしれない。
でも、ブーメランを投げることから、ただ一歩引いて、それをやめて、その代わりに雲ひとつない空に、みたい絵を自由にみることも、好きな場所へ自由に出かけることも、できるのです。
すべて、あのとき、無視した「ほんとうの自分の声」が、それが内側からなのか、外側からなのか、導きます。