この間、ブログに、
2〜3年前?もっと前かな?に、「察して言動するをやめるレッスン」をするようにと導かれたことがあります。
「きっと相手はこうしてほしいのだろう」とか、
「きっと相手はこういってほしいのだろう」とか、
そういった自分の心の中の動きを察知したら「動かない、言わない、何もしない」を徹底する、という感じです。
ということを書きました。
このブログです。
これについて受け取っていたことで、書きたいことを思い出したので、書きたいと思います。
まずその前に、
「きっと相手はこうしてほしいのだろう」とか、
「きっと相手はこういってほしいのだろう」とか、
そういった自分の心の中の動きを察知したら「動かない、言わない、何もしない」を徹底する
と書きましたが、この、一番大事なところは「自分の心の動きを察知する、よく見る」というところです。
それで、これを、ずーっと続けていて、わたしが気づいたのは、
自分から先回りして、察して、いろいろ考えたり、気を使ったり、言動したりする、ということ、さらに、この自分の心の働きについて、なんの疑問も抱かないとか、あるいは正当化しているという状態においては(つまり、エゴと同一化している場合)
相手の心の力を無視することになる、ということでした。
というのも。
わたしが「察して言動するをやめるレッスン」をしばらく続けていて、心から、湧き上がってきた声、というのが、
「何か、してほしいこと、言ってほしいこと、要求、要望があるなら、はっきり、言って〜!」
ということだったのです。
もう、この、
「何か、してほしいこと、言ってほしいこと、要求、要望があるなら、はっきり、言って〜!」
が、湧き上がってきたとき。
実際、家族とかから「あれをしてほしい」と具体的に言われて、することもあれば、しないこともあるし、
わたし自身内観していて「欲求、要求、要望」などをみたとき「これはエゴの願望だから、本当の願望ではない。エゴの願望には意味がない」みたいなことを思うこともある。
でも、以前と、全く違うのが、
家族とかから「あれをしてほしい」と具体的に言われて、それをわたしができたとしてもできなかったとしても、引き受けたとしても断ったとしても、
わたしの心にあるのは「そんなふうに言ってくれて、本当にありがとう」という喜びの感覚だった。
もう!本当に、ありがとう!(歓喜!)
みたいな感じです。
その、あなたの中の、欲求、要求、要望などを、わたしに言ってくれたことに・・いや、ちょっと違うな、
わたしじゃなくても、あなたの中の思いを、ただそうして表現してくれることがとても嬉しい、みたいな感じかな?
ただ、あなたがあなたで、嬉しい、みたいな感じかな?
(前は「めんどくさいな」とか「断ってはいけない」とか、いろいろごちゃごちゃ考えていたときもありました)
この自然と溢れ出てくる感謝というか、喜びというか、これが、自分の中にもあること、感じられることも、とても嬉しかった。
だから、わたしは、可能な限り、それに応えたいと思うようになったし、同時に、それに応えられないからといって心にドヨーンとした罪悪感が広がることもどんどん減っていったように思う。
あと、もう一つあって。
「こうしてほしいんでしょ?こう言ってほしいんでしょ?(私、わかる)」という感じで、勝手に先回りしないということ、
相手の中の「こうしてほしい、欲求、要求、要望」を、相手から、ハッキリと、聞くということ、相手からそれが出てくるまで待つということは、
相手を尊重するということ、相手の心の力を認めるということなんだ・・・・!!
と、すごく感じた。
例えば、セッションとかでも、
何年か前から、お申し込みフォームのところに「テーマにしたいこと、ご要望を書いてください」と書いています。
セッションじゃなくてもですが、
この「欲求、要求、要望、願望」は、自分が自分の思った通りの形・思った通りの筋書きで、そうなるとは限らない、そうなることもあるかもしれないけど、そうならないこともあるかもしれない。
一つだけ言えるのは、わたしは、自分の心の力、自分の中の神聖性との対話、神聖な存在・本来の自分自身との信頼関係、奇跡を体験する喜びを分かち合いたいと思っているので、
「そうならないことがある」というときは、奇跡のときで、ここでいう奇跡というのは、
あり得ない、驚きで、喜びな、体験、
こんなことって、あるんですね・・!な、体験、
まさに「これは神様がそうしてくださったとしか思えない」な体験
予想・想像を遥かに超える幸せな喜び、満場一致の喜び
なのです。
この「わたしはこうしたいと思っている、わたしはこうありたいと思っている」「あなたにこうしてほしいと思っている」
あるいは「認めてほしいという気持ちがあるようです」とか「解放されたくないという気持ちがあるようです」とか「自分のことを価値がないと思っていたいようです」とか
あるいは「もしよかったら、お皿洗い、手伝ってくれないかな?」とか
そのように表現されること自体、素晴らしいことだし、
それを、一点の曇りもない心の喜びと共にきける(言動とか形とか未来がどうなるとかじゃなくて今、心が、ということ、というのは、
それこそ、
(1)察する(2)リーディング(3)以心伝心
でいうところの、以心伝心的なのだと、今これを書きながら、感じました。
この(3)以心伝心というのは「心はつながっていて、ひとつである(とても幸せで喜びな意味で)」ということを、心から実感させてくれるし、体験もさせてくれる。
「心はつながっていて、ひとつである(とても幸せで喜びな意味で)」なので、寂しいとか、孤独感とかが、不可能ということになる。