以前、直感とインスピレーションについての記事を書きました。
直感というのは、なんだか動物的な感じで、インスピレーションというのは神からのもの、という感じがあって、それを言葉にしてみてました。
そのあと、受け取ったメッセージは、「サバイバーはサレンダー」。
自分の中の、直感、感覚、「なんかこういう感じがする」というものを、どんどん信頼していくことは、とても大事です。
「本当にこれで正しいのかどうか?」「〜しなければならない、こうすべきだ」の奥で、微かな声で、でも、確かに伝えてくれている、その、自分の中の感覚を信頼する勇気。
この直感、感覚に従っていると、「まわりの人から心配される、反対される」ということもあるかもしれませんが、それでも、自分の中の感覚を、自分が信頼しつづけるのです。
そうやって、生きていくと、それだけで、いろいろとうまくいくようになる、ということも、多いです。
なので、もし、直感や感覚を信頼したことがない、意識したことがない、という場合は、それを信頼していってみてください。
「なんか、こうした方がいいかも」とか「なんか、やめとこうかな」とか「これをしてみよう」とか「なんかやだな」とか、そういう内なる感覚、深い自分からのメッセージを、大事にすることは、すごく大事です。
直感というのは、おそれ(悪い予感など)に対しても、働いてくれることがありますので、場合によっては「ノーと断ること」を学ぶ勇気(勇気を伴う場面で出てくると思います)が学び、ということもあります。
そうやって直感や感覚に従って生きていても、あるとき、「壁」のようなものにぶつかるようなとき、深い霧の中に迷い込むようなとき、先が見えなくなるようなとき、道が二つに分かれたように見えるとき、
・・・というように思えることは、あるものです。
これは「自分が間違ってきたからだ」とかではなくて、ある言い方をするならば「ステージアップ、フィールド上昇の時期」なのです。
これが「正しいか間違いか本当にそうなのか証拠はあるのか」などではなくて
このように捉える見方、というのも、実はすごくすごく大事なんだと、最近よく思ってます。
そんな時期に差し掛かったときに、お申し込みくださる方は多いのです。
それでこのときって、「直感、そして、インスピレーション」に心を開いていくとき、という感じがしたのです。
今までの直感は大事にしたまま、浄化して、サレンダーして、インスピレーションとのつながりを認識して、神の光を通す開いたパイプとなる。
直感・感覚は、自分の本心と一致できてない場合は誤作動?のようなものを起こすこともあります。
自分の本心と一致できてない場合の誤作動というのは、例えば「母親との関係で悩んで、母親のことが実はちょっと・・・という方が、母親と全く同じタイプの人にときめいて、付き合いはじめたら喧嘩ばかり」などです。
なので、自分の本心との一致(自分が自分の正直な声を丁寧に聞く、認める、受け入れる)というのも同時進行で、非常に重要です。
そして、同時に、おそれ・不安・疑いの浄化、というのが、ここで大きなテーマになるのです。
(補足1)実際に、今、「パートナーと喧嘩ばかりだ」という場合は、慌てて行動を移すとか、結論を急ぐとか、本人に伝えるとか、そういうことしなくていいので(おそれに基づいて自分で行動しても、さらに事態が悪化すると思います)、ただ、自分の本音を認めていくことだけが、大事です。自力でやると「戦場」になって疲弊するようなことも、神に委ねていくと不思議なほど優しく導かれていきます。
(補足2)たとえばですが「お金がほしい」などは、自分の本音ではないです、その奥にある、もっと深いところの声を聴いていきます。
確かに「人間としての自分、物理的この世界」を生きていく上で、直感、内なる感覚はとても頼りになるのですが、
おそれ・不安・疑いが、未浄化のままだと、直感は鋭かったとしても、サバイバル的な働きの方が強くなり過ぎてしまっておそればかりキャッチしてしまう、というようなことも、あるようなのです。
それで、そこで、サレンダーなのです。
特に、サバイバー(生き延びてきた人)は、サレンダー(生かされてきた)です。
サレンダーというのは、無条件の愛である神(内なる神、あなたが心の中で一対一で向き合える神)への降参です。
大いなる存在による完璧な采配、完璧な幸せ、最高最善を司る神に、降参です。
なので「すべてうまくいってるなんて思えません」というよりかは(思えなくても、悪いことはないのですが)
「すべてうまくいくことが今すでに決まってることへの降参」みたいな感じです。
自分がそう思えるか思えないか、というよりかは、もうそういうものなので、それに対して「ない」と言い張ることを、もうやめます、という感じというか。
そういうものだと、受け入れます、という感じというか。
茄子を前にして「いやこれは茄子ではない、茄子とは思えない」と言い張るのをやめて、「はい、これは茄子です」と、受け入れる、みたいな感じです。
どうしても、これが難しいという場合は「これは、茄子なのかもしれない、茄子らしいぞ」でもいいのです、みたいな感じです。
(うまく伝わってますでしょうか・・・)
つまり「自分」よりも、はるかに大きな、もう、すごすぎるなにか、が、今ある、ということを、疑わないということでもあって、
これを「神の愛の奇跡なんか、わたしは信じられません。わたしはうまくいくなんて思えません。奇跡なんかより、わたしは〇〇についてが不安なんです」というときは、なんというか、
無条件の愛を「そんなもの信じられない」と押し除けて、「自分の中にあるこの〇〇についての不安の方が信憑性が高いと信じ込んでいる」、みたいな状態になってるというか。(これが自我のはたらき)
さらに「自分の中にあるこの〇〇についての不安」についても「自分が思う通りのルートで解決されたい、これがいとも簡単にひっくり返って奇跡になるなんてありえない(だから不安を神に捧げられない)」と、どこかで思っているというか。
一回、神に捧げても、また気になる、というとき、わたしたちは、「やっぱ、神の奇跡などより、この不安を自分の力で解決したい」と、どこかで思ってるというか。
なぜか?それは、神の愛が、奇跡が、平安が、こわいからです。あまりにも、こわすぎて、他のお悩みにすり替えてることは、非常によくあることです(自信がない、自分はダメだ、等)
自分の中にある、愛する力、認める力、受け入れる力を、疑わない。「ない」と決めない。
今、無条件の愛、神によって、愛され守られている、という真実を、否定しない。否定しているなら、そっちの方を否定してみる、疑ってみる。
その、自分の中の愛する力を疑う、というのが「自分を疑う、自分を信じていない、自分を裏切ってる、自分を偽ってる」ということです。
自分の中にすでにあるものに対して、疑わしい、という場合、日々練習、なのです。
たとえば、3週間、自分の奥の奥で、幸せはすでに今ここで決まっている(らしい)と、思い続けてみて、そうして過ごしてる中で、現れる優しいサインやひらめきを、大切に受け取っていってみる。