まず「これはこういうもの」というお話として、
エゴの働きとして、愛、奇跡、完璧な幸せの、受取拒否をします。
愛を恐れている、ということもできます。
これは「こういうもの」という感じなのですが、自覚がない、しっくりこない、と感じる場合も多いです。
そして、このことを認められること、気づけることって、すごく大きなことなのです。
なぜなら「自分が、エゴと同一化することによって、愛、奇跡を受取拒否していた」と認められたら、
それと同じように「選びなおす決断をする」ということができるからです。
「選択する」「決断する」「意図する」というのは、引き寄せの法則やスピリチュアルで、もしかしたらよく出てくるワードかもしれません。
ここで「選びなおす」とか「選択する」とか「決断する」、あとは「手放す」という感覚が、全然しっくりこない、という場合は、
「その力が自分にはない」ということを信じている状態になっているかもしれなくて、
↑こちらの記事でも書いたような感じで、内観して、思考をひっくり返していく、「外側に問題や解決があるのではなくて、内側がすべて、内側に原因」ということを何度も何度も、思い出していく、祈っていく、ということで、
内側に力があることを思い出します。
「祈り」というのは、真理・法則を「何度も何度も思い出す」ということとも言えます。
今までは、エゴの恐れの信念を、何度も何度も心の中で唱えて思い出してきたようなものなので、
内容を逆転させて、導き手を変えて(エゴから大いなる存在へ)、何度も何度も思い出す、ということです。
この「選択する」「決断する」力というのは、自分の中にあります。
「想ったものはある」の「想う」というのも、自分の中にあります。
なので、「選択する」「決断する」「想う」「意図する」ということをやってみていて、しっくりこない場合や、
うまくいったりいかなかったりする場合、これだけがうまくいかない場合、というのは、
その「力」というのが、エゴの中に迷い込んでるような感じなので、
そのときは「ああ、今、エゴと同一化している」と認めていくだけで、時短です。
あと「受取拒否」というテーマでいうと、
例えば、ご両親などから「愛を受け取ってもらえなかった」という思いを持ったままの場合など、
悲しみだけでなく、怒り、復讐心(やったことをやり返してやりたい)という気持ちになってる、ということもあります。
このとき「ご両親のせい」にしたり、問題視したり、というだけでは被害者意識を保持することになりますが、
自分が自分の心の中にあるもの、正直な自分の思い、感情、思考などを、浄化していくことで、
例えばですが、
「お母さんはお母さんなりに、そのときのすべてをわたしに与えてくれたんだ」とか
「愛されてないわけではなくて、たくさん愛されてきたけどわたしがそれを見ようとしていなかったんだ」ということに
自然と気づけるようになって、自然と感謝が溢れ出てくる、解放される・・・ということもあります。
こんなふうに、「この”最悪な”出来事、”悲しい”出来事」というのが、
自分で作ってたんだ!自分で望んでたんだ!
自分や誰かや運が悪いとかじゃなくて、自分の勘違いから作ったドラマだったんだ!(なーんだ☆)
わたしの自作自演でした!
ということに気づくと、それだけでも結構すごかったりします。
ここで浄化の一つとして「なんてことをしてしまったんだ(罪悪感、自責、後悔・・・)」などが出てくる場合もあります。
その場合も、形ではなく内容(心の中)を見る、ということにシフトしていくことで、
ほんとうの原因を選び直す決断をすることができて、原因と結果は切り離されていませんので、
原因が選び直されたとき、結果も入れ替わる、ということを体験します。(時間概念が崩れる体験になるかもしれません)