ずっと書きたかったことで、忘れていたかもしれないことを、思い出したのでブログを書いてみようと思います。
例えば「奇跡」とか「創造性」とか「創造する力」とか「成就の力」とか「神」とか「神聖性」とか「神の声」とか「愛」というワードから、
「そんな大袈裟な」
という感じがする方もいらっしゃるかもしれません。
けれども、本物のスピリチュアルには、というか、本物にスピリチュアルにこそ、現実も変える力があるし、
スピリチュアルも、創造性も、成就の力も、神も、「そんな大袈裟な」というものではないのです。
「そんな大袈裟な」と思っているが故に、それを受け取っていても、見落としてしまったり、否定してしまったり、することもあるようです。(わたし自身がそうだったかも)
例えば現実的な努力、対処法を、誰もが認めるほどに、よくやってきたけど、
「努力してもうまくいかない」
「こんなに頑張ってきたのにうまくいかない」
ということは、よくあることなのです。というか、クライアントさんの多くが、こういった方です。
例えば「結婚したい!」という場合だと、
- 結婚相談所に登録して、婚活している
- アプリを登録して、たくさんの人と会ってきた
- 出会うために様々な行動をしてきた
- 恋愛心理、男性心理(女性心理)、コミュニケーション術などを学んできた
しかも、こういった努力を、もう、何年も、やってきた。10年以上やってきた。
という方は、とてもたくさんいらっしゃいます。
そのときに思い出したいのが「今まで使ったことのない部屋があることを思い出してみること」です。
自分を振り返ってみると・・
自分の人生で一番どん底で、もうどうしようもないと本気で確信していた頃に、聞こえてきた「声」は、「鮮やか」という感じでした。
その頃の自分が真っ暗闇だったとしたら、その声は光そのもので「自分とは異質のもの、けれども、自分にとって、とても優しく、安心させてくれるもの」と思っていました。
けれども、あるとき、「そういえば」という感じで、ふと気づいたのは、
その「声」というものは、ずっとあるもの、しかも、自分と異質どころか、本当の自分そのもの、ということだったのです。
例えるなら、わたしは、
「呼吸をすることができない、息を吸うことができない、だから息を吸う方法を一生懸命頑張って探し続けている。あるときは、探し疲れて、息を吸う方法を習得することを諦めてしまっていた」
みたい状態だったという感じです。
でも、本当に、わたしが呼吸をすることができていないんだったら、この個人としてのわたしはこの世界にはいないはずです(笑)
けれどもわたしは「息ができない」と本気でそう確信しており、息を吸う方法を探し求めていた、という感じです。(例えるならですよ)
わたしの場合は、この「息ができない・・!」ということについての確信、思い込み、決めつけ、信念、リアリティ(妄想)みたいなものが、強すぎたので、
あるとき、自分の中の呼吸を感じたときに、とても鮮やかに感じた、と、いうことができるのかもしれません。
そして「あの体験はなんだったんだろう?」という問いをもち、「息をするとは?呼吸とは?」ということを、知的に学びはじめて、実践練習を続けてきて(あるときは”専門家”の力も借りて)、浄化や癒しを受け取ってきて、体験をして、
今までの「息ができていない」という思い込みは、優しく消えていき・・という感じなのです。
※わたしの場合は、先に体験があり、そのあとに、知的に学んだり、内観や浄化にフォーカスしていったりした感じです。
それで、あるとき「あれ?というか、ずっと息してきてるよな」と気づいちゃった、みたいな感じです(笑)
それで、息って、「自分が、自分の力によって、息をしている」という感じではないのです。(だから、自力はほんのちょっと、ということです)
それで「みんなも息をしている」という確信がある、「確信がある」というか、「そりゃそうだ」という感じです。(息、というのは、例え話ですよ)
ここでは、「神」「神の声」「創造性」「成就の力」「愛」などについては、同じものを指しています。
そして、この「神」「神の声」「創造性」「成就の力」「愛」というのは、
「息」あるいは「血の巡り」ってほど、ごくごく普通で、自然で、当たり前で、ある意味素朴といえることなのです。
けれども、外的な情報や歴史や過去の経験などと言った、外側から取り入れたイメージ(ある場合においては押し付けられた、と言った方がしっくりくるかもしれませんが・・)
そういうものによって、「神」とか「神の声」というと、
なんか、すごい、大袈裟な感じがしたり、こわい感じがしたり、気が狂ってるような感じがしたり、気持ち悪い感じがしたり、する、ということは、よくあることなのです。
けれども「息」みたいな感じです。
「息」のことを、大袈裟な感じがしたり、こわい感じがしたり、気が狂ってるような感じがしたり、気持ち悪い感じがしたりする、といったからといって、実際に息ができなくなるわけでもない、という感じです(笑)
「息をずっとしてきた」と気づくことによって、そういう体験をすることによって(奇跡)、「息をしていないんですけど!!」と、この世界に生きながらにしてそのように思い込み続けて、悩み続けて、「息をする方法」を検索し続ける、ということもなくなる、という感じです。
セッションやグループレッスンで、クライアントさんが「息をしていることを自覚する」というか「息を感じる」というか、
そういう瞬間を経験して、それを「ささやかな幸せ」のような感じで、お話をしてくださって、
わたしは、それを聞いて「それが、この世界でよく、成就の力とか、具現化の力とか、創造性とか、現実創造の源とか、神様とか、呼ばれているものですよ。それを深めるというか、それを選び続けるみたいな感じです」というと、
「えええ〜!!!」
となる方も、一定数いらっしゃるので、ブログにも書いてみたいなと思って書きました。