こんにちは。ringoです。
出張から帰ってきました。
この出張により、
・最短コースの目覚め
・安心安全安定の目覚めた日々
について、深く、深く、考えることになりました。
「考える」と言っても、頭の中は、シーンとしています・・笑
今年に入ってから、2018年前後のことを振り返り、「あの頃の自分」に対して「随分と大きく出たものだな」と、ふと思うことがありました。
というのも、2018年頃から、向いていた方向の、凄さというか、偉大さというか、そういったものについての自分の認識が、変わったからです。
変わったというか・・「大きな木だなぁ、すごいなぁ」と思っていたところが、森全体とその神秘を、隅々まで具体的に鮮やかに見えるようになったような、そんな感じです。
内的なことこそすべてであり、唯一重要なことです。
けれども、内的な奇跡を受け取るということは、必ず、その反映としての五感で感じられる物質的・この世界的な「奇跡の体験、サイン、しるし」を受け取ることになります。
そして、そういった、すべての人々の内にある偉大な力について「まだよくわからない」「まだよく信じられない」「証拠もなしに信じることは怖い」「疑ってしまう」ということは、よくあることです。
そういった、自分の内側にある偉大な力、神聖性について、「まだよくわからない」「まだよく信じられない」「証拠もなしに信じることは怖い」「疑ってしまう」と思いながらも、
でも、それを、体験したいとも思う。でも、無理なんじゃないかとも、思う・・
そういう葛藤を持ちながら、自分自身と向き合っていくものです。
最初は、誰でも、そんな感じで、その”偉大なる力”について、疑ったり、信じられなかったり、恐れたり、しているので、だからこそ、奇跡の体験が必要です。
それで、同時に、わたしは、「この世界で人間として生きているということ」について、
その本来の目的は「内側、心の奥から溢れる、喜び、完璧な幸せ」を感じて、自分自身と世界(他者、ものなど、すべて)を輝かせることだと思っています。
そういった意味で、「成就」「願望成就」「願い」というものを、わたしは、とても大切な鍵だと、思っています。
ここの中に、魂を輝かせるための、うちなる光を延長させるための、鍵がある。
しかし、わたしにとっては、「願い・問題・悩み」という、この3つは、すべて同じものでもあります。
このようにいうと「どこがどう同じなの?(全然違うじゃん)」と質問されることがあるのですが、そんなとき、わたしは「どこがどう違うの?(全く同じじゃん)」と聞き返しています。
自分の中にある「願い」というものを「目標」「ゴール」にしない、というのも、願望成就を生きる上で、非常に重要なことです。
例えば、「AとBとC」という可能性があったとして、
「自分は絶対にAがいい」と執着するとします。
「Aにならないと、絶対に嫌だ」と。
それで、ある人々は、引き寄せの法則や、宇宙の法則や、願望成就や、スピリチュアルや自己啓発などに、興味を持ちます。
こういったとき、いつかどこかで、
自分が同一化している考え方ではない見方を受け入れなければならないことになります。
内側が先で、外側があと、だからです。これは、言い換えると、自分が見たいように見ている(自分が体験したいように体験している)ということです。
もうちょっとストレートな言い方をすると、
「うまくいってない、願いが叶っていない、満足していない、問題がある、ということは、自分の見方が間違っているらしい。わたしは是非とも正しいものの見方を受け入れたい」
ということです。
「こういったとき、いつかどこかで、自分が同一化している考え方ではない見方を受け入れなければならない」
と書きましたが、これは、本人が決断すること、本人が望むしかないことです。
そして、その「いつかどこかで」というのは、本人の決断、望み次第によっては、今世じゃない可能性もある、ということです。
・・・ここまで書いたことについて、エゴは、激しく抵抗するでしょう。
ここで、わたしたちは、「自分が本気で望んでいるのは、なんなのか」ということを、本当に、丁寧に、大切にしていく、ということができます。
「うまくいってない、願いが叶っていない、満足していない、問題がある、ということは、自分の見方が間違っているらしい。わたしは是非とも正しいものの見方を受け入れたい。その、正しいものの見方というものを、自分はわからないので、是非ともそれを学びたいし、体験、実践を通して、真の理解を得たい」
「さらに、自分は、思い込みや決めつけを持っていて、信じ込んでいるがゆえに、それを自覚することもできなくなっているようだ」
このようにして、自分が間違っていることを認めたとき、「自分が間違っていて、ほんとうに、よかった」と心から、晴々とした気持ちで思えるのが奇跡、ということもできます。
正しいものの見方で見る、というのは、奇跡を体験するということです。
奇跡、というのは、想像を絶するもの、わからないものを体験する、同時に、完璧な幸せと喜び、真の癒しを受け取る、それを人々と分かち合う、ということです。
「そのときの、物理的必要、エゴの願望が、叶えられる形で」ということも、よくあることですが、やはり、大きな愛を感じるものであり、自然と大いなる存在に頭を垂れたくなるような、気持ちになるものです。
大いなる存在、神様は、「頭を下げろ」などとは決して思っていませんし(そもそも分離していませんし)、「謙虚でいるべきだ」とかそういう話でもないのですが、
大いなる存在の、あまりにも優しい答え、あまりにも完璧な采配を受け取ったら、こちら側が、自然と大いなる存在に頭を垂れたくなる、という感じです。
だからなのか、真に、大いなる存在の叡智に触れたことがある人々、師たち、というのは、真の意味において謙虚でもあるし、全然偉そうじゃないんだろうな、と思います。
わたしの場合は、かなり、この社会において、人間として、「問題児」「狂人」「罪深い人間」だったと思います。
「自分はちゃんとした人間ではない。ちゃんとした人間になりたい」とずっと思っていました。
確か、小学校6年生の頃の作文に「ちゃんとした人間になりたい」的なことを書いていました。
どういうわけだか、自分でそのように信じていたし、だから「みんなから裁かれる」と、長い間、信じてきたのですが、
大いなる存在による癒し、というのは、あまりにも優しく、慈悲深いのです。
あまりにも、優しく、慈悲深く、わたしの勘違いを、正してくださる。
「あえて、痛い目に合わせて学ばせる」「試練を与えて乗り越えさせる」というようなことが、決してない、ただただ、ひたすらに、優しい手段で、癒していくのが、大いなる存在、奇跡です。
わたしの場合は、ですが、
奇跡をたくさん受け取ることで、「ちゃんとした人間」かどうかはさておき、どんどん人間に近づいてきている気がしています。
少なくとも「人間生活における苦しみ」「HSP、エンパス的な苦しみ」は、どんどん減ってきています。
霊性に心を開き、毎日祈りと共に生きるようになって、巫病・禅病・クンダリーニ症候群的な症状もほとんど消失しました。
この世界において、人間として、天国の反映を生きる、ということを、これからも、大切にしていきたいと、思いました。