前回のブログの「質問票についてのクライアントさんのお声」からの引用です。
また、今まで自分が信じていたものに対しても、本当は違ったんだ、と受け入れる事にも恐怖が伴いました。
例えるなら、この世界では信号は青で行くものって信じこんでいるので、それが常識だし、疑わない。
でも本当は赤で行くんだよって教えてもらった。
いやいやいや、赤で行くなんて、そんなわけないじゃん!
自殺行為だぞ!!っていう位の恐怖です 笑
この「セッション受け始めたばかりの頃、ringoが言ってることが、赤信号に突っ込めと言ってるように聞こえてました。笑」みたいな感じのことは、クライアントさんからの後日談として、よくお聞きします笑
※ちなみに、行動・言動・形面でのアドバイスを行うことは、皆無とは言いませんが、ほとんどない、少ないです。なぜかというと、そもそも、ここにはフォーカスしていないからです。
そして、これを書きながら、「あれ?もしや?」と思ったことがあります。
わたしの、小さい頃から両親に「頭おかしい」と言われる、両親だけでなくみんなから「赤信号に突っ込みまくろうとしているように見える」みたいなことを言われるという、あのエピソード。
これはもしや、あの頃から、すでに、わたしは、ガイダンスをよく聴き取れていたのでは、なんて思いました。
ガイダンスは、常にではないにしろ、「頭おかしいように思える」「これ本当に大丈夫かな?というように感じる」「無茶ぶりに感じられる」ということは、めずらしいことではない、むしろ、あるあるなのです。
「聖なる存在からのガイド」というのは「全体像」が見えた上でのガイドみたいな感じでもあるし。
「目覚めの最短距離の指示」みたいな感じでもあるし。
それはつまり「幸せな体験へとどんどん入れ替わっていく、幸せな体験が連続していく指示」でもあるし。
・・みたいな感じでもあると思います。
例えば、わたしが迷路で迷っているとき。
あっちみてもこっちみても、真っ白い高い壁があるだけで、どこにどう進めばいいかわからない、みたいなとき。
聖なるスピリットガイドは、迷路の真上からすべてを見渡しているので、「どこをどう進めばいいか、最短距離を知っている」みたいな感じです。ガイドからすると「迷路など、問題ですらない」みたいな感じです。
それで、わたしが、過去の経験を引きずっているとき、けれども、心の奥では、その経験を手放してより大いなる何かを受け入れたいと思っているとき。
でも、この心の奥の願望(より大いなる何かを受け入れたい)を、自分で認識できず、葛藤や苦しみとして体験されているとき。
そういうとき、わたしは、過去の経験や信念などから「左に行っては危険だ」と思い込んでいるので、できれば「前か、後ろか、右か・・(とにかく、左だけは、いくらなんでもありえないよね)」と、思い込んでいます。
思い込んでいますから「当然そりゃそうでしょ」みたいな感じで、左というのが選択肢にすら入っていない、あるいは選択肢としてよぎっていたたとしても、「左だけは絶対嫌だ」とか「左は、なんかよくわかんないけど、気が重たくなる」「できれば、選びたくない」「怖い、危ない、どうするのよ」とか思ってるわけです。
しかし、心の奥では「過去を手放して、苦しみを手放して、限界や制限を手放して、より大いなる何かを受け入れたい」と願望しているので、「聖なるスピリットガイドの声」もしくは「聖なるスピリットガイドの声を携えた誰か」と出会うことになります。
そんなとき「その神聖なガイダンス、導き」を、わたしは、「突然、藪から棒みたいにして、左へ行きなさい(赤信号を渡りなさいくらいの怖さ)、みたいに言ってる感じに聞こえる」という感じで経験する。
・・ということは、実際、よくあるというか、そんなもんだというか。(わたし自身何度も経験あります)
「これは、恐ろしいし、ありえない」
例えば、わたしがその聖なるスピリットガイドの声を聞いて、恐ろしい思いをしたときの話を書いたブログがこれでもあります。
【わたしの体験談】「私じゃない私に気づいたときの話」と「依存の話」
このときの話で言えば「わたしは、犯罪を犯して牢獄に入り、一生懸命真面目に罪を償っているのに、お前は罪を犯していないので、脱獄しなさいと言っているように聞こえる、しかも、牢獄の門を全開にして、はいこっちこっち、いいからいいから、と言ってるように聞こえる」というような類の恐ろしさでした。
でも、これを書いていて思ったのは・・そして、最近よく思っていたことでもあるのは・・
この心の奥に確かに響いている、強く確かな導き、優しくて甘すぎて恐ろしく思える導き、感覚を、本当は、自分でも薄々、気づいていた、気づいているのではないか、ということ。
騙されていたいという決断をしていたのは、自分だった、ということ。
なぜ騙されていたかったかというと、これを、以前は「復讐のため」だと思っていたのだけれど、そして、確かにそうとも言えるのだけど、また別の言い方をするならば、
騙されることをやめてしまえば、その完全なる愛によって、とてつもなく愛に似た何かが失われるような気がしていたからで、そんなことしてしまえば、自分は本当に一生、孤独になってしまう、一生の孤独が保証されてしまう、と思っていたからで、
これを書きながら思い出すのは、完全なる愛を受け入れることによってでしか、孤独が不可能であるということを受け入れられないんだった、ということ。
完全なる愛を受け入れることによってでしか、喜びを分かち合うということが、できないんだ、ということ。
ここで「蜘蛛の糸」という物語が思い出される。
暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは、この糸を登れば地獄から出られると考え、糸につかまって昇り始める。
ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。
このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって大声で「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。」「お前たちは一体誰に聞いて登って来た。」「下りろ。下りろ。」と喚いた。
その途端、蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまう。
無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈尊は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。
(ウィキペディア「蜘蛛の糸」より引用)
自分のもとに垂らされた蜘蛛の糸を自分が掴むとき、この蜘蛛の糸のような経験をするということは、少なくない、というか、むしろ多い、というか、あるあるのようなのです。
これは、たくさんの人の話を聞いていて、そう思う。
蜘蛛の糸とは、またちょっと違うけど、「まるで後ろ髪を引かれるような」とか「自分ひとりで甘い蜜を吸うような」とか「戦争状態のこの星に背を向け、自分だけのんきに、宇宙旅行に行こうとしているのではないか?自分には思いやりが、かけているのではないか?自分は、血も涙もないのではないか?」とか、そんなふうにして経験されることもあるかもしれない。
わたしにも、似たようなことは、何度もあった。
けれども、蜘蛛の糸を思い出しながら、今、思ったこと。
このようなとき、天国を目的地とした場合、「自分」がすべきことというのは、
「お前たちは一体誰に聞いて登ってきた。下りろ下りろ」ではなく、
この蜘蛛の糸は「お前たち」の前にもすでに垂れているということを、「自分」が思い知ること。
「自分の下から続いてくる数多の罪人」と見えている自分の見方が間違っているのであって、自分の認識こそが狭いままになっていたのであって、
「わたしたちはひとつであるということ」「地獄ではなく、天国でのみ一体性が約束されているということ」ということを、自分が認識できる状態にまで、マインドを浄化して、純化し、洗練させていくこと。
「一人だけで天国」もありえないし。「一人だけで地獄」も不可能。
「複数人だけで天国」もありえないし。「複数人だけで地獄」も不可能。
「みんなで地獄」というのは一体性ではなく孤独感や苦痛をもたらすだけだということ。
蜘蛛の糸をある程度でも登ったなら、そして「地獄に気掛かりがあったり」、あるいは「誰かが地獄にいるように見えたり」、あるいは「誰かが自分の蜘蛛の糸に一緒に登ろうとしている感じ」がしたり、あるいは「自分が天に登ろうとするのを阻止してくる。邪魔してくる、夢を壊してくるように見えたり」するというときは、
ある程度蜘蛛の糸を登ってる自分が、過去の視座を手放すことで、現在の視座に心を開かないと、苦しいのは自分になる。
ちなみに、この蜘蛛の糸は、全員に、わかりやすく、まっすぐに、垂らされているし、決して切れることはない。
なぜなら、全員が、過去・過去世において、「特別な救済」に相応しい善行を成したことがあり、もっというと、すべての過去を超えたところにおいては、全員が、神の愛し子だからなんだ。
じゃあ、反対に。
自分が今、カンダタではなく、どちらかというと「お前たち側」な感じがしていて、蜘蛛の糸も見えてない、あるとは思えない、という場合は、どうしたらいいか?
「どうしたらいいか?」と心に問いかけてみると、蜘蛛の糸が、答えてくれる。
無条件の愛であり大いなる叡智と一つである心に問いかけてみると、感覚が、答えてくれる。
そして、この答えを、必ず、確かに、受け取ることになる。
なんというか、自分の中で、やっと「蜘蛛の糸」のモヤモヤが晴れた。
わたしも今、やっと、長年の「蜘蛛の糸をあなたはどう解釈しますか?」の答えを、受け取れたような気がした。