なんでもしたいことをする、ということを、心置きなくできているとき、
生命エネルギーみたいなものが活性化されるような、そんな感じがあります。
そして、この「なんでもしたいことをする」についてですが、
なんでもしたいことをするということは、
(1)したいことがわかる必要というか、「これ、やってみたいかも」という心の声をキャッチできる優しい繊細さ
(2)そして(1)をジャッジしたり、批判したり、否定したり、不安や心配や疑いで覆い尽くそうとしない優しい強さ
(3)そしてそれをする、言い換えると、それができる、ということ
これが備わっているということになります。
そして「なんでもしたいことをし続ける(魂が生き生き喜び続ける感じ)」には、逆説的かもしれませんが、
(★)”何かをする”以上に、”何もしないということ”に寛げる心であるということ。自分では何もしないということ。
実はこのことがとても重要です。
(1)について。
ここで大事になってくるのは、ありのままの自分を正直に認められているということ。
どんな自分も、そのままを、ただ見てること。
本当の自分は愛そのものであるということ。
正直な自分の声を聞けていないとき、自分の声を聞いていないまま、「他人軸」で「自分のしたいこと」を決めてしまうということがあって、そうなると、心はストレスを感じてしまいます。
あとは、「これ、やってみたいかも」という心の声を、「そんなことしても無駄」とか「意味ない」とか「ま、いっか」と言って、跳ね除け続けているという場合もあるので、大切に受け取っていきたいものです。
最近、ちょこちょこきく話なのですが、例えば・・
あるときは「ヨガを習ってみたい」とうっすら声がするんだけど「一人でyoutubeでできる」と跳ね除ける。
あるときは「身体が疲れてるからマッサージとか行ってみたいな」と思うんだけど「半身浴して自分でマッサージすればいい」と跳ね除ける。
あるときは「〇〇(地名)にある大きい本屋さんに行きたい」という感覚が思い浮かぶんだけど「遠いし、交通費かかるし、人多そうだし、疲れるし、風邪引いたら微妙だし、AMAZ○Nで十分」と跳ね除ける。。。
↑こんな感じの話なのです・・!
なんというか、別にyoutubeで一人でヨガしてもいいし(わたしもお気に入りチャンネルあります笑)
半身浴して自分でマッサージするのも結構ですし、
Amazonもいいのです。
これが悪いというわけではないのですが・・(ちょっとこれは、話が広がりそうなので、一旦置いといて)
なんか、とりあえず、心がこれをやりたい、と教えてくれたものがあるなら、してみる、このフットワークの軽さが波動の軽さですし、
ここで深く考えずに気づいたら行動してた、というのがいわゆるインスピレーションの状態です。
(2)「(2)そして(1)をジャッジしたり、批判したり、否定したり、不安や心配や疑いで覆い尽くそうとしない優しい強さ」
ここが、浄化ポイントでもあり、奇跡ポイントでもあります。
それで・・
「本屋に行くか、Amazonにするか」くらいだったらどうでもいいことで、
「彼に結婚の話をこちらから切り出してみるかどうか」だったら生死を左右するほどの重大事件である
・・みたいな感じで、この二つに差を見る、ということをしている方もいらっしゃるかもしれませんが、
この二つに差を見ないことが、奇跡に難易度がなくなっていくためのコツ、みたいな感じなのです。
日頃の小さなこと、全然関係なさそうなことから、大事にしていく。
なぜなら「小さなことと大きなこと」というのはジャッジメント・決めつけ・価値判断で、本当は同じだからです。
だって「内側が先、外側はその反映で、心がすべて」だからです。(少なくとも、奇跡は、これが前提です)
そして。
時と場合によっては「心の、これやってみたいかも、という微かな声」を行動に移してみることに、すごく勇気がいるとか、こわい感じがするという場合もあります。
よく出てくるのは「失敗する恐怖」や「お金の心配」などです。
この辺りをよく見ていくことが大事なのですが、内観しても、「行動に移してみることに勇気がいる、ちょっとこわい感じがする」ということもあります。
(3)そしてそれをする、言い換えると、それができる、ということ
でも、内観していってると「勇気がいる、ちょっとこわい感じがする、でも、行動に移してみたい、移してみる」と、気づいたら自然と動いてたりするものです。
これは「できた」ということもできるかもしれませんが、気づいたらそうしてた、とか、直感に従ってそうした、みたいな感じの方がしっくりくるかもしれません。
こんなふうに、自分の本心と一致して、行動すると、奇跡、喜びが、どんどん、広がっていきます。
そして、ときには「一見、失敗?期待はずれ?」みたいな感じのこともあるかもしれませんが、慣れてくると、
「この裏に隠れている大きな宝」みたいなものを見逃さなくなってきます。
(★)”何かをする”以上に、”何もしないということ”に寛げる心であるということ。自分では何もしないということ。
「したいことをする」「心の心地よさに従って生きる」というとき、
「何かをしている自分は価値があって、何もしていない自分は価値がない」
「休むことへの罪悪感」
「スケジュール帳にたくさん予定を入れたい」
などの場合は、どこかで「何もしない必要の授業」を受けるときみたいな時期がきます。
わたしは、一回で理解できなかったので、「何もしない必要の授業」を何度か経験しましたが(笑)
そのレッスンが教えようとしている意味を、やっと受け取ったときの感動というか、雪解けというかは、忘れられません。
なので、「何もしない必要」の授業を受けるとき、と言っても、恐ろしい試練などではなく、
楽園への招待状みたいな感じです。
本当に、楽にしていていいと、心から思えるようになったから、だから、楽園です。
「わたしが喜ぶとき、神様が喜ぶ」というのが、鏡の法則なのです。