おはようございます。ringoです。
たとえば「自分を否定する人は〜」とか「他者を批判する人は〜」という言い方があります。
ここ数ヶ月、この「〜な人は」という言い方をしたり、書いたりするたびに、
「人じゃなくて、とき、である」
という声がきこえていました。
「たしかに」と思いながらも、なかなか「癖」みたいな感じで、「人」って言ってしまう・書いてしまうことがありますが、ほんとうは「とき」と思っています。
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落ち込みやすい人っていうよりかは、「落ち込んでいるとき」「落ち込みやすい時期」。
いつも悪口ばかり言ってる人っていうよりかは、「悪口を言いたい時期」。
自己否定が強い人、というよりかは、「自己否定が強くなってしまうとき」。
人の批判ばかりしている人、というよりかは、「人の批判をしてしまいがちなとき」。
いつも問題視ばかりしている人、というよりかは「問題視ばかりしてしまうとき」。
・・・みたいな。
「人生のなかで、そういうときもあった」みたいな。
俯瞰して「自分の人生」という映画を振り返るような感覚。
「そういう人は」だと「自分はそういう人間である。今までもそうしてきた。今までしたことは、取り返しがつかない。後悔、絶望」みたいになって、逆に、自分を認めていくこと、見つめていくことが、こわくなる、ということが、あるのかもしれません。
「そういう人は」だと「自分はそういう人で、どうしようもない人なので、今までたくさん犯した罪を、悔い改めて、厳しく正しく自分を律しなければなりません」みたいになることが、あるかも、みたいな。
否定、批判、裁き、分離、エゴ、攻撃性に基づいていた自分の思考(というか信念)を見つめようとするとき、自己否定があまりにも強いと、こんなふうにして、思い詰めちゃうことも、あるかもしれない。
「わたしはこういう人間だ」というより、
「こういうときがあった」と一回思ってみて、
そして「それをしていた自分」を認める(そのままでもいいよ、大丈夫よ、どんな自分もハグ、と受け入れる感じ)感じ。
「それをしていた自分」というのは、自分や他者を否定していた・責めていた・批判していた・できなかった・ネガティブな感情で渦巻いていた・・・などなどです。
(実際問題、ほんとうに相手を困らせたみたいなときは)謝罪すべき・非を認めるべき状況の場合は、ただ、謝罪できる、非を認められる、みたいな。
これをしたときの、自分とみんなのスッキリ感って、深い深い癒しなのです。
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他者否定・他責・他者批判など、外側に攻撃が向かいやすい場合も。
「ああ、外側にも、攻撃が向かいやすいな」と気づく。
外側を否定する(攻撃性)ということは、自分が自分を否定(攻撃)しているということであり、これは、やがて、どこかが、狂っていく、という法則を、思い出す。
このときも「〇〇さんを批判した自分は悪い人間である。やったことは取り返しがつかない」とかやるんじゃなくって。そうではなくて。
もっと自分をOKしていっていい、
もっとどんな自分も◎していっていい、
もっともっと、どんな自分も、神様は等しく愛してくださっていたことを受け取っていい、ということを、思い出す、のです。
すべてを、愛の道具に使う、感じ。
自分が愛を受け取れば受け取るほど、みんなも愛で溢れるようになって、
”わたし”は、世界から、誰かから、たくさんの愛を受け取ることになる、っていう感じです。
ここでいう愛、というのは、恋愛とか愛情とかではありません。
もちろん、素敵なパートナーと出会ってみんなから祝福されて結婚することになったとか、夫婦仲が改善した、ということも、あるかもしれませんが。
仕事、お金、活躍、願いが叶う、夢が実現する、自分の容姿が大好きになって人からも褒めてもらえるようになった、心が満たされる、インスピレーションが受け取れるようになった、悩みや問題などの質が全く変わった(苦悩、脅威ではなくなった)
などなど、さまざまな、場面での「愛の体験」を、指しています。
「愛の体験」ということだけがリアルなのです。
愛の体験が広がっていく。
癒し、光が、広がっていく。自分のなかの「どうしようもないこと」が、この世界の光として、使っていただける。
これは、誠に、うれしいことなのです。