鏡の視点は愛の視点

おはようございます。ringoです。

今日は、鏡の法則・鏡の実践の、お話、です。

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「この世は鏡」です。

洗面所にいって、洗面所の鏡の前で、右手を、上げてみてください。

そうすると「鏡の中のわたし」は、左手を、上げた状態になります。(※おとぎ話みたいな感じで、鏡の世界がある、と思ってみてください)

つまり。「この世は鏡」というのは、真逆が、世界に映し出されます、という真理、の話です。

「真逆」、「反転したもの」、「もう一人の自分」、です。

表面ではなく、想いの方。

もうちょっというと、鏡の中のわたしも、わたし。わたし自身もわたし。どちらも、愛、どちらも、そのままでいいよ、なのです。

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たとえば。

いじめる人(加害者)、いじめられる人(被害者)がいたとき。

いじめる人、というのは、外側に、「自分がいじめている自分(許せない自分、みたいなイメージかな)」を映しみて、いじめている、ということです。

いじめられる人も、外側に、「いつも自分をいじめている自分」を映しみている、ということです。

いじめる人も、いじめられる人も、実は、自分が自分をいじめている、という、共通したテーマを持っているのです。

ドラえもんの、ジャイアンとのび太、ちょっと、お名前を借ります(笑)

ジャイアンは、のび太に、「こんな自分ではいけない、許せない」と、いう自分を映しみて、いじめずにはいられない、という感じです。

ジャイアンのお母さんは、ジャイアンを、よく怒鳴っていて、ジャイアンは、お母さんの前では、弱々しい、というシーンを思い出します。

あの、弱々しい、しゅんとしたジャイアンも、ジャイアンなのです。

でも、ジャイアンは、お友達の前では、すっごく強い。ガキ大将!って感じです。

ジャイアンは「弱い自分」というのを、心の奥の奥に隠して、「弱い自分」というのを、自分で、強く否定しているのです。

このときのジャイアンは、「強い自分は◎、弱い自分は×」、という状態です。

一方でのび太は。

お母さんからも、先生からも、いつも怒鳴られています。

お母さんから怒鳴られているジャイアンと、「怒鳴られる、怒られる」という点で、一致してます。だから引き寄せの法則、みたいな感じです。(ここに”愛”をみていく、みていきたいと祈るのが鏡の視点)

のび太の場合は「他者からも責められて、自分も自分のことを責めている」タイプです。のび太は、自分にダメ出しをしたり、反省する、というシーンが、よくあります。これも、自分いじめ、です。

これって、ちょっと、強めの言い方をしちゃうと、自己否定、「頭ごなしに否定」という自分へのいじめ、暴力、なのです。

そして、たしか、のび太にも「悪い顔のとき」のシーンがあったはず(笑)

のび太も、状況が変わって、ときが変わって、関わる人物が入れ替わるなかで、ジャイアンの一面が現れることになるです(このまま、自分を否定し続けていると)

優しくて、素直で、純粋な、のび太なら。

もし、「暴力性(いじめ、否定、他責)のある自分」を誰かに現してしまったとき。そんな自分を、また、責めてしまうかもしれません。自己嫌悪、後で激しく後悔、罪悪感、みたいな。

「相手を責めた自分も許せない、でも、相手にも腹が立つ・・・」となるのが、葛藤、です。

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ここまで書いていて、いろんな「声」が聞こえてきます(笑)

え?でも、ジャイアンより、のび太の方がマシ、とか。「他者から責められて、自分のことを責める」ほうが無害じゃん、とか。

どんな理由があれど、いじめはダメ、とか。

↑こういった「ふつうの視点(分裂視点)」だと。

傷は傷のまま。誤解は誤解のまま。否定したい自分や否定したい誰かを外側に作り続けて消耗するだけ。すでに起きている奇跡に気づけない。過去のパターンの繰り返し、となるのです。

というか、すでにそうなってて、苦しくなって、願いを叶えたくて、奇跡を受け取ってみたくて、ここのブログを読んでいるはずです(笑)

自分と相手がいたとき、加害者と被害者がいたとき、片方だけの肯定、では、現実創造は、不可能、なのです。

そして、現実創造の視点、愛のほう、には、いつだって、「今」そうなるのです。5分前に、ジャイアンのことを、批判していたとしても、「今」、また、愛のほうを、選べばいいだけ、なのです。

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ジャイアントと、のび太。

「自分いじめ」「自己否定」という、同じテーマをもって、引き寄せあっています。そして、ほんとうは、もっと、深いテーマで、この二人は、引き寄せあっている、とも言えるのです。

「どう考えたって、相手を許せない」ものほど、神様からのギフト、です。

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ジャイアンとのび太の、ふたつのエネルギーは、両方、肯定されるべきもの、です。

両方ないと、愛とか、現実創造とか、不可能、なのです。

どちらかが否定される、ということがあっては、現実創造や愛など、不可能、なのです。

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「わたしが愛せなかった愛すべき自分」というのを、わたしたちは、外側に、みるのです。

うまく書けてるかな・・・(笑)伝わりますでしょうか・・・(笑)

セッションや講座を受講中で、この話を、もうちょっと深く知りたい方、わたしの体験談使って、話します。

なぜ、わたしの体験談をブログに書けないかというと。

このわたしの体験というのが、どれもこれも、「警察に届け出てたら、立件できてた」内容ばかりなのです。しかし、相手の方は、まだ、お元気の方も多いです。

そのうちの、ひとつの体験談のひとりは、逮捕されています。反対に、どんどん成功していってる方も、いらっしゃいます。

どんなにカモフラージュしても、やはり、その人のことを思うと、公のこの場所で、書けないのです。バレる可能性が、ゼロとは言い切れないからです。

わたし個人の体験談(旧ブログ時代よりも、もっと深い鏡の体験談)が、こういう話がメインなので、いろいろ考えてると、ブログには、書けなかったのです。

わたしもエンパスなので、こういうとき、ごちゃごちゃ考えるのですよ笑

あ、もちろん、「体験談を直接お話しする」というときでも、お相手の方の、実名や、特定できるような情報は、絶対に、出しません。要点は押さえて、プライバシーに関するところは、カモフラージュかけます。

あなたも、わたしも、みんなも。

「絶対に守られていたい」なにかって、あっても、いいと、わたしは、思うのです。

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鏡の視点、鏡の実践、というのは、深い深い、愛、の話なのです。

深い深い愛の視点だからこそ、現実創造や奇跡体験、なのです。

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