憂鬱なとき。不安なとき。恐怖が出てくるとき。絶望感に襲われるとき。無力感に襲われるとき。
ネガティブなとき。マイナスな自分を突き付けられているとき。それが現象として現れたとき。
これは、いつかもブログに書いた気がするのだけれど、もう一度書いてみたいと思います。
もう10年以上前だったと思います。
わたしは精神的にも、状況的にも、「追い詰められた」状態にありました。
しかも、そのとき、わたしは、ある体験によって「死を望む」という選択肢さえ、なくなっていました。
その前に、わたしは「なんとかよくなろうと、自分なりに頑張る」ということを数年かけてしていて、それが見事にすべて空回りしたあとのこと。
最後の「悪あがき」のようなことをしてそのガソリンも尽きた頃でした。
来る日も来る日も、どん底、という感じでした。
何もすることもなく、何もしたいこともなく、もっと言えばすべきこともなかったです。
かといって、静かに瞑想するようなことも、あるいは散歩してみることも、住んでいる土地が惜しみなく与えてくれている寛ぎを受け取りに行くことも、しませんでした。
すべてが、まるで意味がないようなことに、思えたのです。
暇つぶしに、母が録画していたドラマを、興味がないのに流していたことをよく覚えています。
谷をなぞるようにして、そのどん底にいました。
わたしは、ひとりで、「すべてなんの意味もない」と、繰り返しいってくる「自分」と、「ふたり」で過ごしている・・・ということに、あるとき、気づきかけました。
「自分はとことん落ち込んでいるんだ、不安なんだ」と言い張る「自分」と、わたしは「ふたり」で過ごしている。
「このままでは未来は、人生は、とても恐ろしいことになる」と不吉な予言をしてせかし立ててくる「なにか」と、わたしは「ふたり」で過ごしている。
「なにをしても無駄だ」「自分には、楽しむことなどふさわしくない、似合わないんだ」と言い張る「なにか」と、わたしは「ふたり」で過ごしている。
「自分は無価値だ」と何度も主張する「声」と「両親が育ててくれて、祖父母には可愛がられて、いろんな人がよくしてくれたのに、自分は無価値だというなんて、なんて感謝がない人間なんだ」とそれをさらに責める「声」。
頭の中で、「形のない暴力」が起きている。
頭の中で、「戦争」が起きている。
そう思いました。
その状態は、深い極まりないものだったのですが、それをしばらく眺めていると、未来の記憶を思い出したのです。
未来の記憶、未来からの声が聞こえたのです。(このあたりを、前のブログに書いていたような)
その未来の「声」は、わたしになんと言ったかというと「安心して、落ち込んでいて、大丈夫」でした。
「その時間は、今はそう思えなかったとしても、とても、豊かな、時間だから。今のあなたに感謝している」
そんなようなことが伝わる、声でした。
そのあと、どうなったか、など、もう、昔のことすぎて、覚えていませんが、わたしは、今、この未来の声は、心の奥から届いたものであるということを、確信しています。
さて、この話は、「わたしだけの話」ではありません、ということは、年々、わたしのなかの「普通の話」になっていっています。
この話というのは「安心して、それと共に、いていい」ということ。
それ、というのは、恐れ、絶望、憂鬱、です。
なぜでしょうか?と、いう疑問が浮かぶ方には、わたしがお尋ねしたいです。
「安心して、それと共にいられる」のは、なぜですか?
憂鬱なとき。不安なとき。恐怖が出てくるとき。絶望感に襲われるとき。無力感に襲われるとき。
今まで「隠してきたもの」が、よく見えます。
このマイナスの自分をそのままに認めて受け入れること(動かさないこと)、もっというと、安心してそれとともにいることは、
波動を上げる・波長を高くする、などの、前段階として、重要なことです。
最後に、わたしが、大好きな本からの引用です。
鬱や不安、恐れなどの激しい感情が生じたときは、単純にそれとともにくつろぐ術を学ばなければならない。感情に対して「これは良くない」「これは不快だ」とレッテルを貼ったり、それらを取り除こうとあがく必要はない。ただ、あるがままにさせるのだ。
「心の鏡を見つめるー日常に行き渡らせるチベット仏教の教えー,著者ズィガー・コントゥル・リンポチェ」