祈るときと祈らないときの違い?

お祈りClassや継続コースなど、提供中のメニューへのお問い合わせをいくつか読ませていただいて、思ったのですが。

「〇〇じゃないと、受けたらダメ」「これを理解できてないとダメ」とかないです(笑)

というか「完璧じゃないとダメ」とかないのです。なぜなら、すでに完璧だから。それを、受け取り合うことと、その反映を受け取ることが、大事だと思っています。

一番いいのは「ピンとくる」です。

これは、申し込みに限らず、日常生活のなんでもそうだと思いますが、「ピンとくる」ってガイダンス、導きだと感じています。

お祈り Class 全7回

は、あと、残りわずかですので、ピンとくる方、いらっしゃいましたら、ぜひどうぞ。

グループレッスンでは、「あなたを、わたしと別々と見ない、分離を見ない」ということの練習の場としても、受け取っていただけたらと思います。

そのとき、その場に集まる人々、って、共に受け取れるテーマやメッセージがあって、シンクロを受け取っていくことって、神と共にあること、だと思ってます。

光のシンクロを受け取っていくこと、です。

「偶然の一致」ではなく、神の導き、と見ていく、その見方が磨かれていくというのは、この世界への安心感が深まっていくことだと感じています。

これでいいんだ、という安心感。

神を感じられる感じ。

 

 

たとえば、祈らないまま、何かをすると、あとから、後悔したり、自分を責めたり、罪悪感を感じたりすることがあります。

けれども、祈ってから何かをする、これを練習していくと、自分を裁かなくなってきますし、導かれているという安心感、信頼感が深まってきます。

 

 

やはり、できるかできないかとかじゃなくて、練習を続けることが大事ですね。

とにかく、できるかできないかとか、置いておいて、続けること。

「継続は力なり」というよりも、継続することで(ないと思い込んでいた)愛が、実はあると、受け入れられるようになる、その信頼感が深まる、という感じがします。

力、というのは、もちろん、腕力や支配欲などの話ではなくて、愛のことです。

ほんとうは、愛だけに力があります。

「ない」と思い込むことはあっても、愛はいつもある。

なので、ほんとうは、ほんとうは、「愛がない人」などは、いないのです。

自分にも相手にも、奥にある愛を見ていく、見たいと決めること。

 

 

誰かが話してくれる「痛み」のその奥にある愛を見ていくこと。癒しの機会として受け取っていくこと。他人事なんて、ないのです。

誰かがシェアしてくれる「奇跡」を、自分も一緒に経験する、という認識をしていくこと。

分離して別々に見る、バラバラに見る、差異・違いを見る、というところを、超えることは、奇跡を経験していくことと切り離せないことです。

なので、その見方や認識の練習の場にもなったらいいな、と思います。

認識の練習。心の在り方の練習、です。

※いい子ちゃん、できるフリ、平気なフリは、なしで、お願いします(笑)

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