9.9が他力(神力)で0.1が自力です。
自力の部分は、厳密にいうと0.1よりも小さいですが、9.9:0.1とします。
「神様にぜんぶお任せでいいんですね!」
「神様にぜんぶ丸投げでいいんですね!」
・・・という言葉に、ちょっと立ち止まりたくなるときがあります。
確かにそうなんだけれども「何かがちょっと・・・」という感じ。
今日は、その「何かがちょっと・・・」の部分について、書いてみたいと思います。
確かに、すべて神にお任せです。すべて委ねます。全託です。
なんでも神様に尋ねますし、なんでも相談しますし、「自分では何もしない」です。
そうお伝えしていますし、わたしも実際にそうしています。
けれども、ここで、一度確認しておきたいな、と思ったところ、
「何かがちょっと・・・」の部分というのは、
「0.1の自力の部分」で、それは、具体的にいうと、

この記事の中の「自分が持っている不要なエゴの信念・価値判断などを見つけて、手放す(手放したいと望む)」です。
言い換えると「エゴを導き手として選ぶのではなく、神様を導き手として選ぶ、という心の選択・決断をし続けること」です。
何か問題があるときや、執着があるとき、悩みや迷いがあるとき、誰かのせいにしたいとき、同じ問題を繰り返しているときや、不満や文句があるときというのは、
エゴを導き手として選んでいる状態(エゴと同一化している状態)ということができます。
このことを、認めること、このことを思い出せることは、とても大事です。
その上で、どのようなエゴの信念・価値判断・思い込み・恐れ・罪悪感などを持っているかを、自分の心の中を見て、見つけて、手放します。
「これを持ってました」ということを認識していないと、持っていないものは手放せませんので、このプロセスも大切です。
そして、「自分が手放す」というよりも、自分がするのは、手放すという決断であって、それを、神様にお渡しする、という感じです。
これが「エゴではなく、神様を導き手として選ぶ」ということでもあります。
「エゴではなく、神様(内なる神、無条件の愛、ハイヤーセルフ、神聖性)を導き手として選ぶ、選びたい」
という、この気持ちが、「自力の0.1」の部分です。
エゴを導き手として選ぶのであれば、自分は「価値のない存在」「ダメな存在」「罪深い存在」「愛されない存在」「足りない存在」「欠けた存在」「頑張らないと満たされない存在」「惨めな存在、卑小な存在、劣った存在」・・・だったりします。
神を導き手として選ぶのであれば、自分は「完璧で麗しい神の子」「愛そのもの」ということになります。
そして、「鏡の法則」により、
エゴを導き手として選ぶ場合は、例えば「自分は罪深い存在である」という信念を相手に投影したり(相手が悪い、この人が悪い等)、外側の世界の出来事を罪悪感を感じるために使ったり、ということをします。
神を導き手として選ぶ場合は、「自分は完璧で麗しい神の子、愛そのもの」=「相手も完璧で麗しい神の子、愛そのもの」ということになります。
この真実を、外側の世界の誰かや何かにみる、感じる、つながる、体験する、ということになります。
「神様にすべてゆだねる、すべておまかせする」
というのは、本当に、そうであることが大切なのですが、
意外と「神様にゆだねる、ゆだねたい」と言いながら、自分でなんとかしようとしたり、エゴの信念を握りしめていたりすることは、意外とよくあることです。
なので、どちらかというと「自分でなんとかしようとしていた」ことだったり、「エゴの信念を自分が手放さずに大事に持っていた」ことだったり、神への不信感・疑いだったり、
そういうところに気づけることが、とても大事なことだなと思います。
「100%ゆだねたいけど、ゆだねられない、ゆだねるのが怖い、信じられない」という綱引き状態の時期というのはつらいですが(こういうとき、苦行のように感じるかもしれません)
それでも祈り続けてると、あるときふっと、やわらかくなる瞬間は訪れます。