分離の感謝と真の感謝

分離の感謝(?)は、「〇〇なことにありがとう」とか「〇〇してくれてありがとう」とか。

たとえば「雨風凌げる家に住めることにありがとう」とか。

「今日もご飯を食べることができたことにありがとう」とか。

あるクライアントさんが「そんなことにありがとうとか言いたくありません!ヤダ!」とおっしゃっていたことがありましたが、本質を見抜く目をお持ちだったのかもしれません。

「雨風凌げる家に住めることにありがとう」とか「今日もご飯を食べることができたことにありがとう」というのは、分離の感謝です。

これだと「大災害がきて、屋根のない場所に一時避難することになったら、感謝はなくなるのか」ということにもなりますし。

「なんらかの理由でご飯を食べることができない人々よりもマシ」という比較(エゴ)を密かに育むことになる、ということを意識にあげる必要があります。

ありがとうって言いまくってりゃいいものでもありませんし、ありがとうとたくさんいうことが悪いというわけでもありません。

真の感謝とは、条件もないし、分離もないし、比較もないし、言葉にできません。

ありがとう、というのは「ありがとう」と言葉にできますが、感謝は、筆舌に尽くし難いものです。

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分離の愛と無条件の愛。

分離の愛、というのは、これもたとえば条件付けの愛だったり。

よくみると恋だったり、肉欲だったり、します。

「愛おしい、強く欲する」などは、映画で見る分には感動ものかもしれませんが、こういったものが肉欲、依存、分離、ということを知ると、うちなる愛、うちなる無限の創造性というものがよりリアルに感じられるかもしれません。

ずっと、恋のまま、条件付けの愛と無条件の愛、分離の愛と真の愛、の違いに気づかないままだと、ずっと外側に何かを求めつづけることになります。

「ない、足りないーもっと欲しい」という思考の牢獄に閉じ込められ、幻想に翻弄されることになります。

幻想は、幻想をリアルだと信じ込ませ、死という究極の恐怖にまで持っていくのがお仕事です。

これを知っておくと、意識にあげておくと、調子良さそうなのです。

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祈りというのは、愛と感謝。神様へのラブレター♡

愛のエネルギー×感謝=具現化、です。

目に見えないエネルギーは目に見えるものを通りたがるので、必ず具現化します。

偽の愛と真の愛、分離の感謝と真の感謝。

これを意識にあげるようにすると、だんだんと、エゴはただのエゴであり幻想であり、わたしでもなんでもないということに気づきやすくなりますし、エゴにはっきり気づいているという位置はすでに幻想から離れた場所にいるということ、ということで、わたしは日々お祈り♡です。

欲を満たそうと努力し、目の前に人参をぶら下げられて走りつづけるようなものは、儚い夢のようになります。

お祈りなんか絶対無理、つづけるの無理、と言い続けてきましたが、なぜかこんなことになりました。

自分のすべての思考、感情、感覚、直感、ひらめき、気持ち、思い、考え、過去、知識、情報などを一度すべて何も意味がないものだ、と思ってみて、ひたすら内側を見続けていたら、なぜか、こうなった笑

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