の続きです。
前回の記事のところまでは「基本」のところなのですが、その上でも「なんだかもやもや」となる場合。
今、ちょっと思い浮かぶことを、いくつか書いてみたいと思います。
★見たくないところほど、見る(鉄則です)
「このことについて見る(内観する)と良さそうなんだけどな〜」と、うっすら感じつつも、ずっと後回しにしているようなことってありませんか?
内観するのが、なんかエネルギー消耗しそうな感じがする、とか。
モヤモヤしてるんだけど、ずっと、蓋したままにしてる、とか。
「嫌いな人、腹が立つ人、許せない人、ちょっとイラっとくる人」がいるにも関わらず、これは「鏡のチャンス、奇跡のチャンス」「実はこういう人ほど救い主」とわかりつつも、後回しにしてる・・・
ということ、ありませんか?
こういうときほど、ここを見ると、いろいろ流れが良くなる、というのを、わたしは個人的な体験談だけでなく、セッションでも、クラスでも、山ほど体験させていただいてきました。
「見たくないところほど見る」というところでいうと、
「こんな自分はダメ」「こんな自分はいけない」「こんな自分は恥ずかしい」「こんな自分は嫌い」と思ってるところほど、内観するといいところです。
例えばですが、心の奥で「両親やパートナーや友達など、誰かに対して、本当は、心の奥で否定的な気持ちを持っているけれども、こんなこと思うのはいけないこと、罪なことだと思い込んで(罪悪感)、平気なふりをしている」としましょう。
「一瞬微かに浮かんでくることはあるけれども、すぐに引っ込めてる。大丈夫と言い聞かせてるし、実際、普通にやれてる」みたいな感じです。
このようなときは、「心の奥で思っていた相手に対する否定的な気持ち」をただそのままを見ていきます。
無条件の愛の象徴である神様に一緒に心を見てもらうと、次第に安心して内側をそのまま見ることができるようになってきます。
「罪悪感が出てきて苦しい」と思っても、ただそのままを見ます。
「こんなところが嫌だ!大嫌い!」という強い感情が出てきたとしても、それをただそのまま認めるのです。
ここで終わりじゃありません。
感情を、一つひとつ、自分が自分で認めていっていると(無条件の愛と共に見るということをしていると)
そうして、感情の浄化、解放が進むにつれて、
あるとき「ほんとうは、喜ぶ顔が見たかった」「ほんとうは、一緒に幸せを分かち合いたかった」と言う思いが出てくることもあるかもしれません。
相手への愛や、愛を求める気持ちを感じて、優しい気持ちに包まれるかもしれません。
なんかよくわからないけど、涙がたくさん出てきて、よくわからないままにスッキリする、ということもあるかもしれません。
そうじゃなくても、このように「どのような自分も見る、認める」とした方が、返って、
「相手への純粋な感謝」が心から感じられるようになるものなのです。
★ゴミがゴミだと受け入れられていない可能性
自分がすることは、例えるなら「お部屋の中に神様を招くこと、ゴミを見つけること、ゴミは要らないですと神様にいうこと」だけ、
奇跡・ミラクルの体験に必要なのは、たったこれだけ、です!
が「なかなか遠い道のりに感じる」理由の一つとして、
「ゴミがゴミだと受け入れられていない可能性」
「ゴミがゴミだと理解できていない可能性」
・・・これ、意外とあるのかもしれない、と思うのです。
言い換えるなら「エゴの信念、価値判断に対してメリットを感じている状態」です。
たとえば、を、いくつか書いてみます。
淡々と、いきますよ。
「エゴの例」をあげるとき「これは自分のことのようだ」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
特定の誰かのことを書いているわけではなくて、まして責めてるわけでも批判してるわけでもなくて、
エゴの思考パターンとは同じなので、そう感じるだけです、ある意味「エゴと同一化するのであれば、みんなそう」みたいな感じです。
たとえば(1)
悲劇のヒロイン思考(被害者意識、犠牲者意識)の信念、思考パターンを手放せないのは、それにメリットを感じているからで、
どんなメリットかというと、たとえば、「可哀想な自分」でいることによって、構ってもらえるから。相手をコントロールできるから。
たとえば(2)
「わたしは頑張らないと愛されない」という信念、思考パターンを手放せないのは、それにメリットを感じているからで、
どんなメリットかというと、たとえば、自分を犠牲にして我慢して無理をしてでも頑張ることで、
「自分よりも頑張っていない人(見下す対象)」を作ることができて、見下して優越感を感じられるし、
承認欲求を満たせるから。
たとえば(3)
「自分の計画でやりたい、自分の計画通りになって欲しい」「コントロール欲求」「操作したい」「相手を変えたい」「自分の思い通りにしたい」
「特別意識(特別でありたい)」「独占欲」
「執着」
・・・この辺りは、なかなか、「手放したくない時期が長くなりやすい」かもしれません。
わたしは最初はここから入ったようなものですが、長かった記憶があります(笑)ニーバーの祈りをひたすらずっと祈ってました(笑)
この「ゴミがゴミだと理解できていない可能性」「ゴミがゴミだと受け入れられていない可能性」は、
心・スピリチュアル・霊性についての学びが進むにつれて、浄化が加速されていったり、
整理整頓されていったり、
「確かにまったくメリットないどころか、苦しみを増幅させるだけでした」ということに気づきやすくなる、
ということは大いにあります。
今思うのは、どんなプロセスの中にいようとも、それはとても尊いものだし、心からの幸せ、永続する幸せを求めるなら、結果は確かである、ということです。「そう思えない」としてもです。
内観してると、結構、ドロドロしたもの、罪悪感を感じるようなもの、自分でドン引きしそうになるもの(笑)が出てくることもありますし、
あるいは「我慢するのはいいこと」「いやいや私なんか、というのが謙虚さだと思い込んできた」「かわいそうと思うこと、心配すること=愛」など、エゴの解釈を信じてきた(といってもこのように信じてる方は多いでしょう)
ということもあるかもしれません。
そういった「自分だと思っていたけれども、本来の自分ではなかったもの」が浄化されていくとき、
本来の自分の輝きは、自覚がなくても、放たれているもので、その目に見えないところというのが、この形の世界に影響を与えています。