自分を愛する、ということについて。
※「内側に力がある、心がすべて(外側はその反映)」ということにフォーカスしたいので、「行動、言動、物質、形態、何をするか」ということは脇におきます。
自分を愛する、というのは、
最終的には、自分の中にある愛、力があることを認めて(愛のようなものではなくて、本当の意味での愛。本当の意味での力)、
自分は愛そのものであることを受け入れて、
ずっと愛の中にいたこと、いることを思い出して、その中で生きていく
ということでもあります。
しかし↑の状態になろうとするよりも、
「今はそのように感じられていない」ということを正直に素直に認めることが、まず大事なことだと思います。
心が泣いてるのに、笑ってるふりをしたり、
怒りを抑え込んで「穏やかなふり」をしたり、
行動面・物質面だけでなんとかしようとしたりしても、
心の中で”宿題”を増殖させるようなものです。
こんなとき(自分が自分を愛していないようだというとき)にできることは、まず、
自分が自分を責めている
自分が自分をジャッジしている、問題視している、厳しくしている
自分が自分を呪ってる、自分が自分を虐めている
つまり、
自分が自分を傷つけている、自分が自分に苦しい思いをさせている
ということに、はっきりくっきり気づくことです。
これを、はっきりくっきり自覚できたら、
「もう、こんな苦しい思いをさせることはやめよう」
と、自然とそう思えます。
なので「わかってるけどやめられない」ときは、まだわかってないのです。まだ、自分を虐めたいのです。
その無駄な労力を本気でわかったら、やめます。
なので、自分を愛するとは「自分が自分を傷つけていたことを、本気で本当の意味でわかること」とも言えます。
なので「はっきりくっきり気づくだけ」で十分なのですが、
最初のうちは、それになかなか気づかない、ということもあると思います。
例えば「誰かによって、わたしは傷つけられている。わたしを苦しめているのはわたしではない(被害者意識、犠牲者意識)」がある場合は、
「私の苦しみについて、私にはなんの力もない」となると、
「自分にはどうしようもできないこと」となります。
他者や、過去や、未来や、世界に、原因がある、問題があり解決がある、と信じることが、無力さの原因です。
※このように思うことが、いいとか悪いとかの話ではないです。ある意味、エゴを信じるなら誰でもそう思うことになります。
「外側の誰かによって自分は傷つけられた、こんなにも不快な思いをさせられた」
という気持ちは、我慢して心の奥に押さえ込むこともできます。
正当化して、納得したような気持ちになることもできます。
けれども「この思考パターンの檻」みたいなものは自分の心の中にある、自己呪縛の仕掛けです。そしてそれが外側に投影されています。
なので、こんなときは、ある意味、小出しにして誤魔化したり、表面をなんとかして解決したような気になったりするよりも
(これだと、また「問題」「どうしても叶わない願い」みたいなものに遭遇するものです。これは脅しで言ってるとかじゃなくて、自分がそう見えてるから、です。)
自分の中の感情を感じ切って、
「もう、このような感情でいたくない」
と腹から思うこと、そして、
自分の中に選び直す力があるということを受け入れることって、
自分を愛する、一歩なのかもしれません。
または。
自分を愛するということは。
相手の中に愛(”愛のようなもの”ではなく、目に見えない完璧な愛・光・輝き・神聖性)をみる、ということでもあります。
もちろん特定の相手の中だけ、自分が好きな人の中だけに見るのではなくて、誰の中にも、です。
相手の中に愛を見る、というのは、自分を愛することです。
自分が好きな人の中だけに愛をみる・光をみる(例外を作る)、というのは、排他であって、排他は愛ではありません。
なので、もし「例外にしたい」というような人と出会ったら、自分の見方を変える機会、奇跡を受け取れる機会、気づきの機会として、受け取れます。
逆にいうと、自分を愛しているとき、相手の中に愛をみる、愛を受け取れる、相手の愛を感じられる、
そのことを自分は心の中で、本当に選んでいる、
ということでもあります。