ここでいう「エゴ」「自我」とは。
「恐れ」とか「罪悪感」がベースの「ストーリー」とか「夢」とか「空想」(の登場人物)みたいな感じ、です。
これは「頭のなかのおしゃべり・思考」を観察したり、そのまま書き出したりして、見つめる(俯瞰する)と、すごく、よくわかると思います。
「分離(=恐れ、罪悪感)」という思い込みを信じ込んで、
その証拠集めをしている、思考プログラム、みたいな。
映画 マトリックスの、あの感覚、です。
一般的な会話の中で出てくるような「あなたってエゴイストよね」とか「あなたは我が強いわね」とかの、エゴとか、我とかを、一旦忘れてください。これも夢の中の話。
「エゴイスト、我が強い=悪いこと」という排除の思い込みにより、抑圧我慢していい子を演じても、
その抑圧我慢が「嫌な人・出来事」として現象化し続けるだけです。排除したいものを現象化している。
なにがどう現象化するかは、ルーレットみたいな感じです。
気づくまで、現象化し続けます、現実に振り回されつづけます、「現実のせいでこんなに苦しい」とか「手に入れたいものが手に入らない」とかを、やりつづけます。
「この世は鏡」「投影の法則」です。
なので、認めちゃった方が早い、受け入れちゃった方が早い。すべて、受け入れるだけ。
「エゴ・自我」というのは、ひとつのストーリーの登場人物、みたいなものであり、「ほんとうのわたし」とは、関係ありません。
なので、エゴ・自我というのは、ほんとうのわたしと、イコールではないのです。
ほんとうのわたしが見ている夢、みたいな感じです。
だから、認めていけばいい。受け入れていけばいい。気づくだけでいい。
これを「真に理解」しなければ、ずっと思考を修正しつづけたり、「ああしたほうがいい・こうしたほうがいい」という人の意見に振り回され続けたり、「人生、山あり谷あり」を繰り返すことになります。
「真に理解」できないのはなぜか?
その一つの「罠」として、
いろいろ理由はあるかもしれませんが、一言でいうならば「過去」を選びつづけているから、「過去」を信仰しているから、です。
だから、現実創造や「真我と自我」の話って、「いい子、いい人とよく言われる」「仕事や勉強などで評価されてきた」「才色兼備」「成功体験が多い」「”誰かからすごいですね”と言われる肩書きや経歴を持っている」「スピリチュアルのお勉強たくさんしてきました。詳しいです」というほど、難しくなりやすいです。
だって、エゴは、「すばらしい過去」ほど「手放すわけにはいきますまい」と、必死で抵抗してきますので。エゴは「エゴを存続する、この夢を持続させる」という機能を持っているのです。
「偉い人」「強い人」「正しい人」・・・そういう「自負がある人」ほど、「非を認める」のは、難しいわけです。これも、エゴの機能みたいなものなので、全員に当てはまる話なのです。
※なので、真の成功者・心も物質的にも豊かな人というのは、「謙虚」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言いますが、これは、結果論でもあり、法則通り、と言えるのかもしれません。
肉体を持ったということは、そういうことです。
エゴは「肉体から内側がわたし」的な感覚をいつも錯覚させようとしてくる。
ゼロ、が、ほんとうに自由で、いわゆる「願いが叶った、現実創造、想いの具現化、永遠の心の安寧」であり。。。
「願い」とか「問題」とかの、質感、が、全く違うものになっています。
「願い」は「叶う」から、願うのであり、「問題」は「解決」するから、問題として認識できる。なので、願いとか願うとかじゃなくなってくる。でも、それは、退屈とか空虚とは、むしろ正反対というか、そういうものとは無縁のところ。
この「ゼロ」の感覚、これは、悟りといっていいのかもしれません。
そして、悟ったあとが重要。
さらに苦悩が待ってます、ということではなくて、「エゴ」「自我」というのは、それだけ、しぶといですし、
肉体を持って生きる、ということ自体が、「エゴ・自我・分離」で生きる、ということのようなものなのです。
********
なんで「エゴ」とか「悟り」とかの話を、今、しているか、については、次回書きます。