「人の評価を気にする」を見つける

「書くか書かないか迷うとき」というのが、今までにも何度もありました。

そして、「書くか書かないか迷う(=エゴ)」を、じーっと見てみると、

「人の評価を気にしてるとき(エゴ)」でもあるし。

それはつまり「自分をよく見せたい(なぜならば、自分は醜いというのが裏、エゴ)」でもあるし。

それを見ていくと「相手がどう思うかは相手の自由」ということを、忘れていた、ということも、思い出しました。

とはいえ、それにたどり着くまで、

「やはり、〇〇として〇〇であるべき」という、責任感正義感(エゴ)も出てくる笑

「自責の罠(もっと〇〇すればよかったエゴ)」なども、出てきました。

そのたびに、それを、捧げる、差し出しました。

「相手がどう思うか、感じるかは相手の自由」

ここは、大切にしたい。

自責、自己否定というところで思ったのは、

「どうせわたしは悪いですから、もうブログ書くのやめます」

これのほうが、よっぽど楽に見える、まさにマーラ、甘い誘惑()

映画「下妻物語」の

「幸せを勝ち取ることは、不幸に耐えることより勇気がいるの」

を、なぜか思い出しました。

「相手がどう思うか、感じるかは相手の自由」

これは、コントロールの取り消しでもあるし、排他ではなくて調和をみていきたい、ということでもあります。

そうそう。

書くかどうか迷ってたことの一つ。

「心」って。

旧ブログまでは「心理学」だったり「脳」だったり、そういう認識?をしていたと思います。

なにかが、すごく、引っかかりながらも。

なにか、引っかかってたんです。

今の認識は、心って肉体を超えたところというか。光、愛、たったひとつの魂、たったひとつの心みたいな。

「わたし」という人間が、自分の本音をきこうとするとき、そして、魂につながろうとするとき、心理学が必要だったという感じです。

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