鏡の実践って、ゆるすということ
ゆるすというか、呪縛をとく、ともいえます。
たとえば、なんかちょっとやだな、気になるなという人がいたとしましょう。
原因は内側、と思い出してみます。
そして、
その苦手な人に「感じるもの、みるもの」
=自分の内側の反映(投影)だとしたら?
と、問いかけてみます。
「感じるもの、みるもの」は、その方によって(感じ方、見え方によって)違います。
なので、鏡を続けていて「視力が上がる」となると「同じ人からまた他のものを感じる」と言うこともあります。
「この人とわたしは違う」と感じる人や、「隠してる自分」がいるほど、時間がかかったり、みたくなくなったりと、抵抗が出ますが、
こういう相手の方ほど「鍵を持った人」というか、大事なのです!
なかなか、先に進めないときは、
- 相手に言いたいことや、
- なにが、どんなところが嫌なのか?
- どうしてほしいのか?
などを、書き出してみます。
たとえば。
相手の人が、なんか上から目線な感じで偉そう、と感じるとします。
そして、自分はそうではない、と思ってるとします。
どちらかというと「自分は謙虚な方で、自分は優しい方だ、みんなからもそう言われるし」と思うとします。
この場合、
- 「上から目線であること」に対して、自分に対してジャッジ(禁止)している
- 謙虚でなければならない
と、自分と自分をジャッジしていることがあります(これが自己呪縛)
たとえば、人前では謙虚にしていても、家族には上から目線になってしまうとか、
心の中で、上から目線なことを思ってしまう、
ということは、誰にでもあること(あってもおかしくないこと)なのですが、この「ジャッジ(禁止)」があるというのは、抑圧することにつながります。
そして、このようなジャッジ・自己否定・自己批判などを持ったままにしていると、それを世界に投影しつづけることになり(上から目線な人を作りつづける)
その否定的な感情というのは、一番大切な人にぶつけてしまうことになる、という感じです。
自分の中にある、否定的なセルフイメージというものを、見たくないから、外に見てる、みたいな感じです。
「否定的なセルフイメージ=間違ってる(罪悪感)」です。
これを、気づいて、認めて、受け入れることで、癒し、となります(場合によっては、奇跡、となります)
「上から目線の自分がいてはいけない」と思ってるいうことは、
「上から目線の自分という誤ったセルフイメージを存在させていることになる」ということと同じことです。
上から目線になりましょう、という話では、ありません笑
そして、このとき、
自己呪縛(上から目線はダメ、謙虚でなくてはダメ)があって、投影してたことに、ただ、純粋に気づいた場合というのは、
自分も、相手も、(もしかしたら、意識に上らない誰かも)呪縛から解放されることになる、ということです。
過去に出会った人、これから出会うことになるかもしれない人、一度も会うことがないかもしれない人…それはわかりません。
この、呪縛をかけている正体(?)というのは、自我です。
自我は、人類のもので、悪ではありません。
自我を消すことが目的ではありません。
(振り返ってみて、あのときなんだったんだと笑ったり、ブログのネタにしてやろうとニヤニヤしてしまうことは、個人的によくあります笑)
自分が自分を見るように、自分は相手のことを見たり、
そんなふうに見られてるのではないか?と思ってしまったり、するものです。
これは、自我の眼差しでも、慈愛の眼差しでも、デス。
呪縛を解く、ひもをゆるめる、みたいなイメージです。
なので、相手の方を変えることを目的としたものではありませんし、
反対に、どんな相手でも、心底、愛せるようになるべきだ!そうならなければならない!という話でもありまん。
「そんな自分がいてもいい、そんな自分も大いなる存在に愛されて守られてる」ということでもあり、
見方、感じ方、捉え方、解釈の仕方を癒す、そして、活かせるようになる、ともいえます。
この「呪縛」「カルマ」「縁」「繰り返されるパターン」を、こちら側で、解く、みたいな感じです。
鏡なので、
あなたの幸せ=わたしの幸せ
全体の幸せ=わたしの幸せ
です。
(余談)
たまに「ちょっと苦手だった職場の同僚が、鏡してたら仕事を休むようになった」というようなご質問をいただくことがありますが、
これは、もともと休みが必要だった人に休みが与えられた、みたいな感じで、ゆっくり休んで元気になるといいね、みたいなことです。
エネルギーが外向きな方や、スピリチュアル好きな方や、エンパスさんで、
「自分が苦手な人は、どんどん、いなくなっていく(奇妙…)」と言う場合がありますが、
そのような場合は、グラウンディングをしたり、バウンダリー(境界線)を意識するといいです。