神がかってるというか、本当に神、という感じです

こんにちは。ringoです。

お祈り、すごいです。神、すごいです。

年末限定でマンツーマンのお祈りレッスンを募集させていただいて、レッスンではお祈り(大いなる存在、聖なる存在との対話、関係性)にフォーカス、メールでもお祈り。

通常の継続コースも、お祈りしたい、と言ってくださった方とはお祈りしています。

毎日、どなたか、奇跡や癒しの体験のメールをくださっていて、わたしもすごく嬉しくて、今まで以上に「存在」を感じてます。

 

 

「祈る」ということを、わたしたちは、きっと「神」とか「祈る」という言葉を使わなかったとしても、祈ってる方は意外といらっしゃるのではないかと思うのです。

「神、祈り、奇跡、完璧な采配、本来の自分は完璧な神の子」というと、「怪しい」とか「この人大丈夫かな宗教かな」とか「そんなバナナ」とおっしゃる方も、いらっしゃるのですが。

 

 

それでもまぁ、多くの方は、神社やお寺などにお参り行きますし、普段行かなくても「出産・受験・商売繁盛」で行く方は多いですし、

「やっぱ年末年始は、NHK ゆく年くる年だよな」という人は多いでしょうし、海外旅行行ってお守りや魔除け買って帰るという方も多いようですし。

それと何が違うんだろう、と思います。

 

 

「いや、ほとんど、神社とか行かないです」という方でも、

人生のどこかで、絶体絶命的になったとき、すごくすごく苦しすぎるとき、もうどうしていいかわからないとき、「お願い」というようなとき、「応援してるチーム、勝ちますように」というようなとき。

祈る、ということは、あるのではないでしょうか。

 

 

これを、八方塞がりになってから「助けてください」とか、スポーツ観戦のときだけ「神様!」とか、「お願い!」というようなときだけ祈る、というところを、

せっかくなら、毎日やってみようよ、なんとなく普通に考えて「ここぞというときだけお祈りするのと、毎日お祈りするのとでは、毎日お祈りする方が、すごそうじゃない?」という感じです。

・・・。

さらに・・・・

しかも、毎日、奇跡や癒し、愛のしるし、神の姿を、体験しようよ・・・

と、こんなふうに、言っちゃうと、突然「怪しい」感じになるのは、なぜでしょうか。笑

 

 

「毎日、神の愛の奇跡を体験し、真に癒しを受け取る、与え合う」ということが、怪しく感じるほどに、

「わたしは幸せを受け取るなどふさわしくない。愛されるに値しない」「わたしは完璧な神の子などではなく、不完全で惨めな罪人である」と、熱心に信仰している、ということは、ないでしょうか。

わたしはそうだったので、これに気づいてから、自我やばいなと思い、毎日、お祈りしてます。脳内会話が大抵「自我との対話」って感じだったので、それを、祈り(無条件の愛との対話、感謝)にするようにしている、という感じです。

 

 

たしかに、毎日、祈るようになっても、「まるで毎日ディズニーランドに住むミッキーマウスのようです」とかでは、もちろん、ないです笑

ハンカチがどんどん鳩になる、とか、そういう話をしているわけでもありません。

けれども、たとえば、ぐらぐらっと心が揺れる何か出来事があったとき、それが、だんだんと、奇跡の扉にしか、見えなくなってくる。

何度も繰り返し練習していく中で、本当に、こわいときほど、大きな愛の体験が受け取れることが、だんだんと、自分の中で、経験を通して、信じられるようになってくる。

 

 

体験は、人それぞれなのですが、クライアントさんからのメールを読みながら、まるで、

神様が「ここにちゃんといるよ」みたいな、なんというか、神を、奇跡を、その方がわかる、感じられるかたちで、経験されてらっしゃって、いつも感動します。

 

 

そうだ、そうだ。

最近、恋愛系で、お悩み、問題、迷い、願い、となってらっしゃる方や、パートナーがほしい、という方などと、お話してたことで。

 

 

例えば「彼でもいいし、彼じゃなくてもいい。わたしにとって最高最善のパートナーと幸せに暮らす」というのがあったとき、前提というか、「その心は」みたいなところが大事です。

 

 

「(わたしは愛されるに値しません、価値がありませんが、そんなわたしが)最高最善のパートナーと幸せに暮らす」だと、弱いです。

「わたしの定義」が「愛されるに値しません、価値がありません、わたしなんか」で、

そのようなわたしがパートナーと出逢いますように、だと、この、心の奥で思ってる方(隠してる方)が具現化します。

なのでなかなか叶わなかったり、出会っても微妙になったり。「神の采配、奇跡」って感じになりにくいと思います。

 

 

「(親が結婚しろってうるさいし、今の仕事もうんざりだし、もうこの年だから)結婚して幸せに暮らす。結婚じゃなくても素敵なパートナーと幸せに暮らす」でも、

この、心の奥で思ってる方(隠してる方)が具現化します。

なのでなかなか出会いがなかったり、出会っても「親に思ってた感情」を引っ張り出してくれる相手だったり、します。

 

 

まず、この「わたしの定義」「自我の自己否定の信念」を、内観して、よく見つめてみます。そしてそれを差し出して、ゆだねて。

「神様 あなたの完璧な采配によって、最高に幸せなわたしにふさわしいパートナーを、あなたが与えてくださることに、今感謝します」

 

 

こんな感じで、「わたしの大前提」を、「愛されるに値しない、価値のないわたし」から「ありのままで最高に幸せな神の子」にします。

恋愛結婚じゃなくても、お仕事などでも、応用できると思います。

 

 

祈りは、言葉・文言を暗記することが重要とかではないですし、「神棚あります」というのもそれ自体が重要ということではないです。

「その心は」のところが重要です。

なので、言葉がなくてもいい、言葉がない祈り、というのも最高なのですが(わたしも黙想、というのでしょうか、そういうのが好きです)

言葉によって、法則を受け入れていけるところがあると、わたしは思っています。でも一番大事なのは「その心は」です。

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