自分と自分の一致(1)自分の素直な本心を聞く

今日は、第1ステップ「自分の声を聞く(=自分の素直な本心を聞く)」のお話です。

とその前に、わたしの昔話をば。

これも、また、わたしの醜態を晒してしまうようで、不快な思いをしてしまう方がいらっしゃらなければ、いいのですけれども。

昔、わたしは、本やインターネット記事などを読みながら「いじわるな質問かもしれない質問」がよく浮かんできていました。

「自分の内側が原因だとして、この疫病、戦争、悲惨なニュース、天災は、なんなのか」

とか。

「なると思えばなる、なると思うからなる、のであれば、今わたしが鶏になると思えば、鶏になるんですか」

とか。

こういった質問は、たしかに、幻想信仰によるものです。

しかし、「波動・波長・ステージ?」みたいなものが、異なる、教えというか、メソッドというか、人というか、わかりませんが、

そういう「なにかが異なるものは違和感を感じる」ということもあります。

自己否定が強すぎる、というのは、「自分のことをよくわかっていない、見当違いをしている」ということであり、見当違いをしたまま、なにかを求めると、「見当違いな場所」に行ってしまう、ということがあるのです。

わたし(ringo)は、人間です。

しかし、わたしがマーラ信仰により、自己否定が強く、自分のことを「イルカ」と見当違いをしているとしましょう。

「わたしはイルカである」と見当違いをしたまま、「わたしもイルカとして一人前に自立して幸せになりたい」と思い立ち、海に入ります。

今10月です。ふつうに、寒くて「できない」となります。

「できないわたしは、劣等だ」と、落ち込みます。

しかし、思い出してください。

人間もイルカも、どちらが優劣とか、上下とか、正しいとか間違いとか、ないわけです。

ここで、頼りになるのは、素直な本心、です。

素直な本心、というと、「いい子は素直」という記憶(潜在意識、インナーチャイルド、他)が表面に出てきてくれて、

「わたしは10月の海に住むことができませんでした。ほかの先輩方(イルカ)はすごいな、と思いました。先輩方のその姿に勇気をもらいました。わたしも海に挑みつづけたいと思います」

こんな感じのを用意する、ということがあります。これを、自分が自分を無視、未読スルー状態、などと、当ブログでは呼んできました。

「わたしもイルカとして一人前に自立して幸せになりたい」と思い立ち、10月の海に入ろうとしたときの、わたしの場合の素直な本心は「寒い、無理」です。

こういうときは、とりあえず一旦、おうちに帰って、半身浴でもしながら、あたたまる方が、絶対にいいに決まっているのです。無理こしゃりこ海にとどまりつづけようとしたり、イルカ先輩たちと通信しようとしたりしても、風邪引く程度ならまだよい方で、最悪は、溺れ死ぬか、凍死するか、です。

大事なのは、素直な本心、です。

「素直な本心を聞きたいな、ほんとうは、どう思ってるのかな?」みたいな感じで、聞きに行こうとすること。

これが、まず重要です。

これは、リンゴメソッド★第一ステップです。

リンゴメソッド★というのは、

わたしが、長い時間をかけて、

(1)ありとあらゆる本を読み。インターネットを読み。わけわかめだな、と思いながらも、本を読み。たまにですけど、貧乏信仰時代に両親を騙してお金を巻き上げ、いろんな先生さんに会いに行き。

(2)当時の友人知人身内などから相談を受けたら、そのお話を聞いて。

などなどをやってるうちに、一本線が通った、というか、そういう感じのものなので「わたしのメソッド」などというつもりは、本心では皆無ですけれども。

「ringoブログでまとまった3つのステップ」にしましょうか。まどろっこしいですね。

たとえていうなら、わたしは、最高級コーヒー豆屋さんです。

コーヒー豆の鬼、です。

ありとあらゆる、コーヒー豆を、見て、味わって、経験してきました。

そのなかから「この、コーヒー豆!!」と思ったものを、お取り寄せして、一粒一粒、ピンセットで、厳選したものが、

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↑ここにまとめたものです。

なんでこんなコーヒー豆を、ピンセットで摘んで、最高級コーヒー豆屋さんになったのか。

なにが、わたしを、そうさせたのか。

それは、わたしの執念、期待、狂気です。

家族、当時の恋人、当時の友達、当時仕事で関係した人などなど、ありとあらゆる人に、「頭おかしい」とか「言ってることおかしい」とか「絶対無理に決まってる」とか「ちゃんと現実をみなさい」言われつづけてきましたけれども、多分これが狂気、に当てはまるのかもしれません。

なにへの、執念、かというと、「幸せになりたいし、心穏やかになりたいし、だれにも文句言われたくないし、思うままの人生を生きたい」とか、そういうことへの、執念です。執念とは「執着して離れない心。物事にとらわれた心」です。

わたしが「執着執着」書いていたのは、執着って、マーラが繁栄しやすい環境なので、そう書いていただけで、それは全部自分の経験からも言えたことなので、そう書いていただけでした。

執着している状態では、自由度が低いのです。しかし、一度「一番嫌なものを受け入れる、変えられないものを受け入れる」とすると、これが通称「手放す」ですけれども、そうすると、一気に、無、となり、無、というのは、ガチの自由、でもあります。

無、には、「マーラに取り憑かれた自我による金縛り」がありません。

無、には、光が降り注ぐのみ、なのです。

期待、というのも、そうで、期待についても「一番嫌なものを受け入れる、変えられないものを受け入れる」ということをすると、期待と裏切りのマーラセットが消失し、完全フリーとなり、無となります。すると、期待ということが「願い=叶う」の視点で「ただ淡々と知る」となったり、「すでに与えられているものへの感謝」となったり、まぁ、その両方、ということがほとんどですけれども、そうなるのです。

「一番嫌なものを受け入れる、変えられないものを受け入れる」

これは、なかなか、難しいし、抵抗感パンパない、という時期も、長かったですよ。

そういうときは、自分が自分を受け入れる、ということが、やはり、良いみたいでして、その第一ステップとしての「素直な本心」を今日はご紹介させていただきました。

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「素直な本心を教えてください」と、あたたかい場所で、あたたかくして、自分に聞いてみてください。

ここで「なかなか、素直な本心が出てこない」という場合は、時間を置いたりしながら、一回ほかのことしたり、しながら、何度か聞いてみるのです。

「なかなか、素直な本心が出てこない」ということに、イライラしたり、絶望したり、しそうになったら、「神様、どんな自分も等しく認めて、愛してくださり、ありがとうございます」と唱えて(お祈り)

そして「受け取りました、どうもありがとう」と言ってください。

「なにも受け取ってないんですけど!?」と思ってもいいし、胸がざわざわしていてもいいし、なにも心がこもらなくていいので、「受け取りました、どうもありがとう」と言ってください。

「素直な本心を教えてください」と聞いたら、罵詈雑言が飛び出てきた場合は、紙にその本心を書き出してください。なんでもいいですよ。一言二言とかでもいいです。

わたしも、あなたも、みんなも、「あいつを、呪殺したい」とか「死ねばいいのに」くらいのことを、密かに作って閉じ込めていたり、するものなのです。

これは「わたしの本質」とか「わたしそのもの」ではなく、マーラにそそのかされた結果、幻想信仰の結果、であり、結果、という時点で、すでに幻想になってますし、終わってますから、大丈夫です。

紙に書き出す、ということを、ひとりですると、現象化したことになり、終わります。

ここで、誰かに聞いてもらうのもあり、聞いてもらうことも必要、というときもあるものですが、「ひとりで紙に書き出すほうが安全だし、最大公約数」みたいな感じです。

まぁ〜、でも、最近はとくに、

「自己否定が強すぎる、というのは、自分のことをよくわかっていない、見当違いをしているということであり、見当違いをしたまま、なにかを求めると、見当違いな場所に行ってしまう、ということがあるのです」

↑こっちバージョンのお話が多いです。

イルカ以外の、ほかのたとえを書くとするならば、

「自分は本当は大学生なのに、自分のことを小学生だと思い込み、小学校に通い、算数の授業を受けて、これは求めているものではない、と直感するけど、根がまじめなもんですから、謙虚に先生の話を聞かなければならない、と思考修正をして、我慢して算数の授業を受け、休み時間になると、まわりの小学生たちに、やーいやーい、と囃し立てられて、疲れ果てる」みたいな。

誰も、悪くありません。

まわりの小学生たちや、小学校の算数の先生が悪いとか、間違っているとか、劣っていたわけでもありません。

みんな、それぞれの場所で、のびのびすることが、一番、大切なのです。

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